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機は時に順うて時を超ゆ-1 (6/18)

これは歴史を超越して而も歴史の根底になる。随って仏法の歴史を語り、三千年の過去のことを遙かに憶念して語っておいでになるのでありますが、しかし三千年の過去というものも単なる過去でなく、現在と直接に連続し、現在の自分というものと離れたものではない。だから祖聖が浄邦縁熟調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養と仰せられたが、釈尊と申すも韋提希と申すも調達と申すも阿闍世と申すも、時間空間を超えて現在の御自身と一如であり一体である。矢張り「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐さふらひし」というお言葉を想い出すのであります。現在と懸け離れている昔の、唯そういう偶然の事件があった、ということを想い出してお書きになったのではないのであって、これは当時の時代がこの通りであり、又祖聖の主観の事実というものがこの通りであるということをお示しになってある所に、深き意義があることと戴くのであります。そうでありますから然則ということが、非常に切実なる意義を有つのであります。そうなれば成程、如来浄土の因源・果海のいつわりなきことを、それを静かに念じてみるというと、そして更に翻って自分の内外の姿を省み、そしてその現在というものも単なる忽然的の現在ではない、それは矢張り三千年の昔に直に連続し、そこに自分が闍世として韋提として居ったのじゃ。自分は釈尊より三千年経った後だけにいるのでなくして、『観無量寿経』を拝読すると、三千年の昔にも前生の自分がいた。つまり親鸞は三千年の昔、一方には阿闍世というものであった、又同時に他方には韋提希というものであった。今日は親鸞という、昔は韋提希といい阿闍世と名けられた。そこに三千年の隔たりというものが全くとれて了って、三千年を飛躍している。唯今日初めて忽然として今日があるのではないのであって、三千年の昔から已に今日があったのだという聖人のお感じではないかと思います。そこに三千年の昔の王舎城の特殊の悲劇と、七百年の昔の鎌倉時代に御出世なされた祖聖の生死罪悪に対する全般的なる悩みと、その二は理屈からいえば何の関係もないことであり、彼は彼、此は此、時を異にし処を異にし何の関係もないことと思われる。随って理知には偶然なんです。その外的理知的偶然の所に内的本能的必然を感動する。何が必然かというと理論はない。後から附ければ尤もらしい説明や理論も附かんことはないかも知れませんけれども、全く何のゆかりもない、見たことも逢うたこともない王舎城の阿闍世太子、或はその母の韋提希夫人、或は何千何万里という距離のある所の日本の国にお生れになりました祖聖、それが時間空間の隔たりを超えて、そこに出会う所の三千年の昔の我母是賊と叫んだ阿闍世は自分であった、我今楽生の韋提は自分であった、という不可思議なる感銘であります。

(行信の道  「23 機は時に順うて時を超ゆ」より)