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法の必然と機の偶然-1 (6/16)

惟うに法は無始久遠より尽未来際まで現前に等流しつつ、衆生の機の感応を待ちつつあります。法は何時でもそれに対応する一切の準備は成就して居ります。法は恒に必然であります。しかしながらそれに対する所の機というものは外的なる人間の理知には誠に忽然偶然であり、それは千載の一遇であり、時機の来るは容易ではなく、全く人間の予想を許さないものであります。初から予定出来るものならば、機とか縁とかいう訳には行かんのでありましょう。だから宿善とか宿因とかいうことを申します。宿業とも宿善とも申します。宿業に就きましても、善の宿業あり悪の宿業あり、それも一体そういうものがあるというようなことも、我々の理知には全然予知出来ぬ所であります。その時機忽然として来るや周章狼狽、為す所を知らぬというが如きものであります。若し能く久遠の昔から明らかに予知し給うものがあるならば、それが為に大悲の願を発し給える仏のみ確かにその方であると、こういわねばならぬのであります。

それで今、如来の因源・果海、即ち本願・光明の御力というものを祖聖は竊かに念ぜられるというた所が、別に何か不思議のささやきがあるというようなことではないのでありまして、これは教主世尊によって『大無料寿経』というものが開顕せられて、それがずっと三国の七高僧によって伝承されて来たものであります。そこに如来の御国が自然に証明されてあるのであります。だからしてそれをここに先ずお示しになりまして、難思弘誓度難度海大船、無礙光明破無明闇恵日と仰せられたのであります。勿論、これは単なる言葉ではないのでありまして、それが矢張りずっと一の道として、祖聖の大行・大信という体験、信仰の体験の上に一々の文字というものが生きて感じておいでになるのでありましょう。

(行信の道  「22 法の必然と機の偶然」より)