表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

仏教史観の問題として実者か権者か-2 (6/15)

仮い歴史が仏教の歴史であろうが、政治の歴史でありましょうが、総て歴史の上に現れて来る所の人格というものは、先ずそれが現実の人間でなければならぬ。それは矢張り実業の凡夫であるという所に、歴史的な意義があるのでないかと思います。初から歴史を以て総て大権の聖者の意巧と予定して了えば、それ等の人々の使命功績というものは、我々には何の感銘もないことになる。私は真実の歴史は総て凡夫の歴史だと思う。一寸先も分からぬ苦悩の歩みである。その点から見れば畏れ多いけれど、釋尊も矢張り実業の凡夫であらせらるる。「上は大聖世尊よりはじめて下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり」。我等仏徒として、そういうことをいうのは全く勿体ないか知れませんけれども、兎も角釋尊も凡夫であらせられる。大地の上に生れて来たものは総て平等に凡夫である。だから本当いえば皆凡夫としての悩みというものを、人一倍お感じになったこととせなければならぬと思うのであります。それを本当に知らせるのが『観無量寿経』でありましょう。

それであるからして、阿弥陀仏の五劫永劫の因位の修行というものも意味を顕すじゃないかと思います。初から経典に現れて来る人物は皆大権の聖者で芝居しているのでは、初から芝居すると思うと真剣な芝居は出来ないものと思います。初から演習と思っては真実の演習にはならない。演習は実戦の如くということが出来るならば、その逆も亦言えることであろう。してみれば演習は実戦の如く、実戦は演習の如しであります。実業の凡夫として心から悩み、各々の業に本当に縛られる所が実業の凡夫というものでありまして、本当に縛られる所に復権化仁なる輝きがあるのじゃないかと思うのであります。往相は実業の凡夫である。その還相に於て始めて権化の仁ということが出来る。七高僧も祖聖も還相として権化の仁として見られる。「定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし」。本当の権化の仁として崇められる。人々その人の自身の自覚に於きましては、本当の実業の凡夫として、本当に罪に悩まされるその人にして、始めて権化の仁として他から崇められる人でないかと思います。だからしてここで然則浄邦縁熟調達闍世興逆害、闍世は調達の口車に乗せられて逆害を興したのである。随って浄業機彰釈迦韋提選安養。尤もこれも韋提希が、我は最早や浄土から来たんだからというのではないのでありまして、「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、又「参るべきは安養の浄土」ということは、実業の凡夫として選んだのでしょう。我等が仏教の歴史というものを本当に見る時になれば、先ず以て実業の凡夫として自己を見るべきでありましょう。

だからして私は日本の歴史だってそうであろうと思います。我々は神の子孫であるから特別に偉いもんじゃと自負する者がある。神の子孫であるという位の者ならば、あるまじきことをせぬ筈じゃないか。自分如き者をも神の子孫ということは、偏に神の方から認めて下さるのである。自分から勝手に神の子孫であるなどいうことは誠に勿体ないことであります。仏法は罪というものを教えるが、神の子孫に罪があるというか。これは裡飛んであり、公式であります。公式というものは唯一つの形式であり標本でありまして、又公式というものは公式に合わないものを解く為にあるのでありましょう。初から一切が公式通りに定ったものなら、公式も無用ではないかと思います。しかし合わないものが此方から強いて合わせようとすべきではない。合わないものを合わないものと柔順に自覚する時に、不思議にも神より合わせて戴くのである。此方から合わせて合わないものが、向うから自然法爾に合わせて下さるので、此方から強いて合わせようとしては大なる矛盾に陥る訳であります。

(行信の道 「21 仏教史観の問題として実者か権者か」より)