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仏教史観の問題として実者か権者か-1 (6/14)

私思いまするに、この浄邦縁となり浄業機となった調達・闍世、或は韋提等の人々は実業の凡夫か権化の聖者かということに就て、支那の浄土教学に於まして古来異見がありますが、善導以前の諸師は口をそろえて韋提は大権の聖者である、外には権に女人の形を現しておいでになるけれども、内実はもともと大権の聖者である。道綽禅師も韋提大士と称し、古今の諸師と同じように大権の聖者としておいでになる。然るに善導大師に来ると、韋提希夫人は確かに実業の凡夫である、本当に宿業に苦しみ悩まされて、本当に自分の無能無力を通して、遂に如来の本願をいう所に落ち込んで行かれたんだ、こういうのが善導大師の大体の立場であります。

そこで私思いまするに、祖聖も今、浄邦縁熟調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養という、ここは矢張り実業の凡夫としてお示しになったので、善導大師と大体同じ立場に立っておられるのでありまして、成程韋提希夫人を一体大権の聖者と見ることは、悟を開いた人にして始めて出来ることである。しかしながら自ら現に他力本願を仰ぐ所の苦悩の凡夫が、如何にして同じく本願をたのむ所の韋提希夫人を、直に大権の聖者と見ることができよう。釋尊は生身の聖者、弟子達は大権の聖者というても差支ないかも知れません。しかし阿闍世・韋提・提婆の如きこれ等の人々は、矢張り実業の凡夫と見ねばならぬわけでありましょう。

所謂聖道門の、或は『華厳』とか『涅槃』・『法華』とかいう経典の處に立っておいでになる所のお方々は、頭から経典に出ている所のあらゆる人物を、皆大権の聖者であると見られるのでありましょう。それ等の経典の範に止っている限り、そういう風にいわれるのが或は当然かも知れません。だが、そういうような立場から『観経』に於る韋提・阿闍世・提婆等を一括して直に皆大権の聖者であると推論するのは、如何のものであろうか。先ず王舎城の大悲劇を直観すべきであります。茲に浄土教の久遠の性格がある。この根本的性格を知らない彼等は、それは実在的に大権の聖者、初から直に独断した大権の聖者、何時の間にやら一種の理想主義者になっているのじゃないかと思うのであります。これは私はこの前にも申したと思いますが、仏法の真如とか一如とかいうものは、本来理想の一如ではない、現実の一如である、本当の現実の背影としての一如である。天上の一如でなくして地上の一如である。その意義を明らかにしているのが浄土門である。所が具体的な一如は何時の間にやら天上の一如になって来たのではないかと思います。大権の聖者というものも、唯初から形而上学的に在るのじゃないと思います。

(行信の道  「21 仏教史観の問題として実者か権者か」より)