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浄業の正機-3 (6/13)

我が祖聖が韋提希夫人の御心持を深く感銘されて、さながらに韋提希夫人の境地に同感して、恩徳広大釈迦如来というこの一句で、その全部が現れていると思うのです。釋尊の眉間に光台が現れた、釋尊が一種の神通力を起して浄土を顕された、それで韋提が驚いたというのではないでしょう。直接に釋尊の心境に同感した所に、光台現国ということが出て来たのでありましょう。韋提は静かにこう申し上げた。私は十方諸仏のお浄土を拝まして戴いて有難いことでありあすが、私は今特に極楽世界の阿弥陀仏の所に生れんことを楽います。我今楽生極楽世界阿弥陀仏所とこう申し上げた。この一句の處を善導大師は別選所求、「別して求むる所を選ぶ」と釈して居られます。韋提の選択浄土であります。これは釋尊が密かに韋提に勅されたのである。釋尊の御導きである。恩徳広大の釈迦如来一代を通じての大事業でありました。これが即ち善導大師の所謂広開浄土門である。韋提希夫人のこの一語で広大浄土の門が永久に開かれた。この一語こそ浄業の正機の顕彰である。さればこそ善導大師はしかく感嘆の声を放って居られます。この言葉は一見平凡なる言葉の如くであるけれども、この一語こそ誠に浄土の門が始めて開いた大機関であったと、これは韋提希夫人が十方衆生全体を自分一人に引受けて、恰も祖聖が「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という所でありましょう。恐らくは祖聖はこのお言葉は、韋提希夫人のこの時のこの語の気持と相応ずるものではないかと思うのでございます。浄業というものは何でしょうか。正しく浄土の業という、それは本願の念仏でありましょう。本願の念仏であります。諸善万行も悉く至心に発願回向すれば浄土の行となるのでありましょうが、しかしながら正しく茲にいうのは本願の念仏を指していったのでありましょう。浄業の正機が彰れた、浄業機彰釈迦韋提選案養、釈迦が韋提をして案養を選ばしめたのであります。前の浄邦縁熟は逆縁である。逆縁は疑謗である。浄業機彰は順縁である。順縁じゃ信順である。

浄邦縁ということと浄業機ということは必ずしも、縁と機とは必ずしも二つ別のものといわなくともいいかと思います。「釈迦・韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ」、雨行大臣がここで保証人になったのでありましょう。縁も機も大体同事だと考えられます。しかし縁という時は、これは外に浅く間接のもので、機という時は内に深く直接なるものである。だから機というものは外縁に対し内因とでもいうことが出来ましょう。これは『歎異抄』第三条に「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」、悪人正因ということがあります。悪人正機ということは普通いうけれども、悪人正因ということは外にない。これはどういう訳か。本願をたのむ信心が往生の正機だというなら解るけれども、本願をたのむ悪人が正因だとはどういうことかということになりますが、悪人正因というのは悪人正機ということであると解釈すべきであります。これは成程我々は普通自覚と申すのでありますが、その多くは理知的理想的でありまして我々は本能的に絶大なる一の如来の光明遍照の大自覚の中に在るのでありましょう。調達闍世興逆害は自覚の外郭を示し、釈迦韋提選案養は自覚の中心を示したものでありましょう。

(行信の道  20 浄業の正機より)