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浄業の正機-2 (6/12)

次に欣浄縁の所では通請というものがあります。一般的な念仏というのは人間の無力無能なことを教えて下さる。此濁悪處地獄餓鬼畜生盈満多不善聚、願我未来不聞悪聲不見悪人。そして身を投げるようにして求哀懺悔せられまして、唯願仏日教我観於清浄業處と、自絶瓔珞挙身投地の殆ど乱心の状態で号泣して陳べられた時、そこに釋尊は稍暫く黙して静かに内に念じておいでになる。こういうことは余程、私は意味が深いことだと思います。我々は何でも言っても言わんでもいいようなことをいうている。丁度お医者さんがいい加減な薬を盛っていると同じでしょう。けれども釋尊はそういうことはなさらない。じっとして静かに内観をしておいでになる。何を念じておいでになったかというと、十方諸仏の浄土を念じておいでになった。『大無量寿経』に依れば過去・未来・現在の仏々相念をしておいでになったのでありましょう。その釋尊の眉間から光が出て来た。これは前にも度々私が申しましたように、眉間の光、眉間とは眉と眉の中間である。普通に眼というものは智慧を表すもの、眼を見れば賢い人間か愚な人間か解る。しかしながら人間の感情というものは先ず浅い所は口で解る。口の締りのある人間と口の締りのない人間と、口で解る。それからして本当に人間の深い感じというものは眉間にある。世尊が何かを念じて居られる、仏々相念しておいでになる。これは皆さんが賛成せられてもせられなくてもいいのでありますが、自分が眉間の處に一寸でも暗いことが浮ぶというと眉間がぴりっと動く、眉が一寸八字形になる。それは争われないことである。額の眉間が曇る。横の皺はこれは敢ていうのではありません。今竪の皺をいうのであります。二の眉が近く寄る、そうすると眉間が曇る。所が眉間に白毫相がある。

嘗て或る富める家に行きました時、そこの御本尊にはダイヤモンドが眉間の白毫相に嵌めてあった。その家の主人が云わるるには、ダイヤモンドは指輪に嵌めてみても単なる装飾に過ぎないが、仏さまの眉間に嵌めて置けば人々をして敬礼せしめることが出来る。全体、仏陀の眉間に白毫相なる特別のものがあるのでもあるまい。けれども白毫相というて何かそこに威光を拝する。これが『大経』の光顔巍々に当るのであろう。又釋尊が微笑して僅かに唇をお開きになれば五色の光が出るという。如来は常に眉間が光っていらせらるるでしょうけれども、その時は特別に光っていた。それが光台現国でありましょう。一方には韋提希が狂乱のようになっているけれども、釋尊は静かに、所謂釋尊の精神界には一の小波すらも立たぬ、静かに仏々相念しておいでになる。その眉間から光が放たれ諸仏の浄土を照し、その光が還って世尊の頂に住し光台となり、諸仏の浄土がここに現れた。それは釋尊が静かに諸仏を念ぜられまして、その釋尊の御姿というものは私ははっきり解りませんけれども、竊かに想像しまするに世尊は、御頭は稍しな垂れ、御眼は半ば開き、御唇は軽く閉じ、御心は自然に眉間に集中せられた。寂静は暫く続き、世尊の念じておいでになる御心持というものが韋提希にも感得された。心が何時の間にやら、苦悩も忘れ平静になった。『大無量寿経』の大寂定という世尊の境地に、世尊の御力によって韋提も自然に入ることが出来たろうと思うのであります。これが即ち、「恩徳廣大釋迦如来 韋提夫人に勅してぞ 光臺現國のそのなかに 安楽世界をえらばしむ」と和讃に述べてありますが、『観経』には韋提希夫人が総て偏に如来の恩徳であるというて、光台現国の後の處に、世尊如我今者以仏力故見彼国土というてあります。

(行信の道  20 浄業の正機より)