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浄業の正機-1 (6/11)

それから浄業機彰というのは、『観経』序分第四段の厭苦縁と第五段の欣浄縁に相当し、今までは此世の楽園の如き王家が、太子阿闍世によってその団欒は一挙に覆えされてしまって、頻婆娑羅王には幽閉裡に餓死を待ち、太子阿闍世は全く狂乱状態であり、后妃韋提希夫人は深宮に幽閉されて、始めて人間の悲劇というものを感ぜられたのでありましょう。昨日に変る幽閉の身にも、さすがに夫人は矢張り王妃たる身だしなみというものは儼然と保って居られたのであります。身に瓔珞をつけ、宝冠を被って端然と坐して居られたのでありましょう。日常の生活というものは以前の如くであったろうと思うのであります。そうしてふと深く人間の暗黒を今更の如く知られ、遙かに耆闍崛山に向って礼拝されまして、貴い世尊のおいでを願うということは畏れ多い、どうか阿難を遣して法を説き聞かせるようにして戴きたい。かく遙かに世尊を礼し已って頭を挙ぐるや、ああ世尊釈迦牟尼仏、身は紫金色、百宝の蓮華に坐しておいでになります。それを拝みました時、実に自分の浅ましさ、依然としてお后の化粧をしたり、冠を被っているその自分の醜さというものが、始めて身に知られまして、思わず自ら瓔珞を絶って身を挙げて大地に投げ捨て、身だしなみも何も忘れ、泣き叫んで世尊に向うて、ありとあらゆる総ての愚痴を曝け出した。そうして世尊我宿何罪生此悪子、私に何の宿罪があってこの悪い子を生んだのであろう。つまり何の因果でということでしょう。自分がどういうことをしたか、そういうことは全く忘れて、唯宿業を呪うて居ります。それだけでなしに猶世尊に怨を述べて、世尊復有何等因縁與提婆達多共為眷属、私は智慧浅い女である。で、親不孝の子を生むということも宿業已むことなしと諦観も出来ようが、三界の大導師といわれる大聖世尊は、宿世に如何なる悪因悪縁のあて提婆達多と眷属たるや。世尊ともおわす御方にどういう悪い宿業が残って提婆達多と眷属たるや。釋尊と提婆とは世俗的にいえば従兄弟の肉親であり、又仏法の方からいえば師弟の関係がある。一体、ああいう弟子や従兄弟を有っていられるのは、どういう業縁であるか。夫人では阿闍世は性来別に悪子とは思わない、提婆達多の誘惑に乗ったのである。こういうことから何か知ら釋尊を怨み、畏れ多いからして直接には言いませんけれども、間接に釋尊に向って尽きせぬ怨みというものを表しているのではないかと思うのであります。これは問題として、夫人が自己も阿闍世も提婆も、而して畏れ多くも教主世尊をも、底知れぬ宿業の泥海に投ぜんずんば已まぬのである。これが厭苦縁であります。それから第五段の欣浄縁であります。欣浄縁というのは浄土を欣求する縁であります。尽きせぬ愚痴や怨みを述べ畢って、それから罪深き自己の真実の救済を心から欣求せられた、それが欣浄縁というものであります。已上、厭苦・欣浄の二縁の意義を示すものが、今次の浄業機彰釈迦韋提選安養の文であります。欣浄厭穢之妙術ということがありますが、誠にそれであります。

(行信の道  20 浄業の正機より)