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教興としての宿業-3 (6/9)

『観無量寿経』にはこの悲劇の由来に就ては何も述べてありません。それから以後韋提希夫人を中心としてのことを、経の序文に詳細に記されているのであります。提婆が阿闍世をして逆害を興ぜしめた。父を殺し母を殺す、尤も母を殺そうとしたのですが、耆婆・月光等の忠臣の誠によって已むなく思いとどめた。阿闍世は先ず父親を七重の室に閉じた。そうすると今度は韋提希夫人は香湯に全身を清め、次で酥蜜を塗り、後に乾ける麨を安き、清浄なる衣を着て之を覆い、又冠の中に浦桃の漿を盛り、毎日毎日足を運んで七重の室へ入って身の上の酥麨を取って団子を作り、それを夫王に捧げられた。又水を求めて之を王に捧げられた。王は身を清め遙かに世尊を礼して日々に八斎戒を受け、かくの如くして三七日の間、頻婆娑羅王は逆境にも身心は明澄であられました。阿闍世王はもう既に親の命が終っている頃だろうと思った。そこで門番に対って、「父の王は今猶存在せりや」。父王は今頃もう命終せられたであろうと云いたい所でしょうが、猶存在耶と経に書いてある。阿闍世としては上手に誤魔化したつもりであるが、逆に人間性の弱さを露している。然るに門番が意外にも、王さまは猶御存在で在らせられます。それは敢て門番の責任ではなく、御后が毎日おいでになる、どうも我々は知っていても生命を賭けておいでになる御后の御姿の気高くお傷わしく、それを如何に王命なりというてもお止めする訳に行きませぬ。態と見ぬ風をしてお通し申しているのであります。加之、世尊のお弟子が神通力を以て自由に入って来て日々に八斎戒をお授けいたします。だから王さまは御身も御心も平和で在らせられます。それを聞くというと阿闍世王はかっとして怒って、「吾が母は是れ賊なり、賊と伴なればなり」。御和讃に「阿闍世王は瞋怒して 我母是賊としめしてぞ 無道に母を害せんと つるぎをぬきてむかひける」。「耆婆・月光ねんごろに 是旃陀羅とはぢしめて 不宜住此と奏してぞ 闍王の逆心いさめける」。「耆婆大臣おさへてぞ 却行而退せしめつつ 闍王つるぎをすてしめて 韋提をみやに禁じける」と、剣を捨てましたけれども残念でたまらぬ。成程、母君に対して剣を以て対ったということも間違っていたけれども、母君こそは自分の唯一の味方でなければならぬ。父と子の関係は幾分理知的でもあるが、母と子は純粋に本能につながっている。あおの本能の愛情というものは絶対的なものじゃ。夫婦の関係は複雑であり、多分に対立的理知的である。それにも拘らず、我が母が子に叛いて夫に随っているというので、その余瞋の為に韋提を深宮に禁じた。そこまでが調達闍世興逆害。それらが浄業機彰釈迦韋提選安養となります。

(行信の道  19 教興としての宿業より)