表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

教興としての宿業-2 (6/8)

頻婆娑羅王は深く釋尊に帰依していられる。阿闍世というのは無邪気な太子なものだから、提婆はこれを巧みに籠絡しました。一体、太子は晴やかな心を以て単純に日暮しなされて、父君に対しても如何にも無邪気に満足していられるようであるけれども、これは大間違いというもの。父君というのはその実太子の仇である、決して父君に対して油断があってはならぬ。そうすると阿闍世は驚いて、それは一体どういう訳じゃ。私は父と母との慈愛の中に包まれていて何の不満もない。何故仇などとそういうことをいうのか。では太子の右手の指を御覧なさい、何本ありますか。やあ私の指は四本しかない。それ御覧なさい。左の御手を御覧なさい、左は五本あるでしょう。右は唯四本、そこに証拠があるのであります。抑ヽ太子の右手の指が一本足らぬのは、本来なかったのではありません。太子の指は生れながらの不具じゃない。能く御覧なさい、これはそこにどうしても一本あるべき筈のものが、一本折れた跡がある。こういうようなことをいうて、段々話を巧みに進め、抑ヽ阿闍世という名は折指という意義で、指が折れているということじゃ。尚また阿闍世という名は未生怨の意義、即ち未だ生れざる時からの怨ということじゃ。此頃は生命判断ということが流行するそうでありますが、いろいろ理屈は附けられるでしょう。私は未だ聞いたことがないから知らぬが、私の名前はどんなことがあるかも知れぬから改めたがようかろうというかも知れぬ。一体、名を附ける権利は親です。吾が子の名を自分で附けることが出来ないというのは、親がどうかしている。少し足らぬわけでしょう。人に附けて貰ったりするというのはどうかしている。名というものを有っているのは人間だけしかない。犬や馬には号はあるけれども名はない。人間は号は有っていないものもあるが名は皆有っている。人間というものは自分の子の名によって、自己の諸の願いというものを表明して居ります。末吉とか末子とかいうのは多勢の子供に困って附けたが、まだ続いて三人も生れた、扨今度は何という名を附けたらいいか。そうなると惨めなものであります。お前は一体何という名前か。末吉という。実はお前は生れても仕方がないが、生れたもんだから末吉と附けた、親には邪魔にされているという風にいうと、これは不都合だというて間違った考を起こさんとも限らぬ。けれどもまさか親が未生怨とか指折とかいう名を我が子に附ける訳はないのでありましょう。語を屈げて悪い意味に解釈するからそういうことになるでしょうが、善い理屈が五あれば悪い理屈も五ある。差引すれば零になります。提婆は悪い方だけ並べる、未生怨ということじゃ、指折られた不具者ということじゃ、これ御覧なさいと。和讃に「宿因その期をまたずして 仙人殺害のむくひには 七重のむろにとぢられき」。これは『涅槃経』に説かれてあり、亦善導大師の『観経序文義』にも詳しく述べてある。それ等のことは事実であるかないか解らぬ。一の伝説でありますから、伝説を経文に記してあるのでありましょう。そういう所の嘘も本当も混ぜて、提婆が阿闍世を巧みに」誘惑した。そうして、あなたは父王を殺して王さまにおなりなさい、私は釋尊を殺して仏になろう。この新王・新仏が茲に手を携えて王舎城の舞台に現れたならば何と愉快ではないかと。坊ちゃんは成程と感心して、遂に王舎城の大悲劇となったのであります。

(行信の道  19 教興としての宿業より)