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仏教は特殊宗教に非ず (6/6)

仏教なども一の特殊的宗教と、仏教者自らすら考えているようでありますけれども、どうもそうではないと思います。これは仏法が明徴なる国体を完備せる我が日本に伝って以来繁栄して来たというのも、そういう所に意味があるかと思います。特別な一種のインスピレーションで或る特殊の経験の持ち主が按じ出したりしたというのではなくして、無始久遠の人類が呱々の声をあげたことが、流れ流れて一貫して来ているのである。その中に釋尊以前にどういう人々が伝持したのであったか、大概実名は消えてしまっているけれども、過去の諸仏として各ヽ独自の尊称を受けつつ、そういう神話のような人が居って伝えていたと思います。それを釋尊という偉大なる方が出て、始めて根底的に道を教法として整理し、始めて仏教という一の歴史的事実の形をなしたのである。そうでなければ本当の意味の仏道というものは考えられないものだろうと思います。だから祖聖などが願力自然の念仏の道、これこそ真実に業道自然を超えたる無為自然の道であると仰せられます心持ちは、そこらから了解することが出来ると思います。

だから然則と、仏道というものは釋尊に創ったんじゃないが、釋尊から仏法の歴史が創ったのである。成程そうである、そうであれば浄邦の縁が純熟して来て、そして調達が闍世をして逆害を興ぜしめた。調達というのは提婆達多である、闍世というのは阿闍世王である。この阿闍世王を主役とする王舎城の悲劇の詳しいことは『大般涅槃経』にありますが、『観無量寿経』には唯母韋提希夫人を主とする一面が説いてあるのであります。『大無量寿経』は釋尊以前の仏道が、それを釋尊によって伝承せられ己証せられた、それが『大無量寿経』の伝統であります。『観無量寿経』のみを拝読すれば浄土の道というものは釋尊によりて始めて開顕せられたように考えられるけれども、『大無量寿経』を対照してみると弥陀本願の道、浄土荘厳の道というものは釋尊以前の道であって、釋尊こそこの阿弥陀仏の本願海より来現し給うた応現の如来であるということが、明らかにされるのであります。まあこのようなことは私如き何の学問のない者が申しても、何か空虚なことしか考えられ
ないのでありましょうが、これは齢若き学徒達の深く考うべきことであって、今は大体の方針を陳ぶるに止めます。

(行信の道  18 仏教は特殊宗教に非ずより)