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道が教を生ずる機縁-3 (6/4)

だから誠に本願・光明というものは、実にこれは内面的には広大無辺なるものであるけれども、しかしながら外面的に見れば誠にささやかな力であり、又ささやかな光である。この仏道の本末を説明する所のものが『大経』である。それが王舎城に於て『観経』というものが説かれて、それから本願の大道が明瞭になって、所謂三千年の仏教の歴史というものがそれから創ったのだと。そこに於て浄土の機縁といいますか、「弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富樓那・韋提 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等」「大小おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」「定散諸機格別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし」。道の体は始もなく終もない。或は久遠の如来浄土の因果、滾々として尽きせぬ所の如来浄土の因果、南無阿弥陀仏の道というものを、それを先ず竊以と掲げられたのでございます。

この遠くして又深い根源があるからこそ、この浄土教というものが歴史的に見ても仏教の本流を為し、中心を為している。これは源が遠く又深きに由ることである。遠きが故に近く、深き故に浅い所に在る。それをこの第三段に円融至徳嘉号転悪成徳正智、難信金剛信楽除疑獲証真理也と、切実に示されたのである。尊い道というものは手近に、我々が何時でも聞き、何時でも行うことが出来るように我々に与えて下さる。仏教の歴史を貫通して流れ、仏教の歴史の上に我等の機に相応して与えられているものは大行・大信であり、その体南無阿弥陀仏であると、こうお示しになっているのであります。第一段だけ見ると如何にも高遠であるが、それを道は邇きに在るというということをお示しになったのが第三段でしょう。故知と、念仏を信ずるということは何でもないようだけれども、その淵源の宏遠なるを明らかにして、専奉斯行唯崇斯信と切に結勧せられるのであります。

(行信の道  17 道が教を生ずる機縁より)