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道が教を生ずる機縁-2 (6/3)

だから『教巻』を拝読すると、『大無量寿経』の大意というものをお示しになって、『大無量寿経』は釈迦から始らないで弥陀から始っているのであります。斯経大意者、弥陀超発於誓広開法蔵致哀凡小選施功徳之実、釈迦出興於世光闡道教欲拯群萠恵以真実之利。即ち釈迦の前に既に弥陀がある。釈迦の前に既に弥陀があるけれども、それは釈迦によって始めて明らかにせられている、そうなって居ります。それは親鸞以前は、支那の善導大師でありましても印度の天親菩薩にしましても釈迦・弥陀の次第となっている。世尊我一心帰命尽十方無礙光如来。釈迦牟尼世尊によって阿弥陀仏の本願というものを聞いたのだから、先ず釈迦に帰命し次で弥陀に南無するという次第になって居ります。善導大師も亦常に釈迦・弥陀の次第を守って居られますけれども、これは敢て善導大師だけではないのでありまして、殆ど親鸞以前を通じて釈迦・弥陀という次第になって居ります。それが我が親鸞に来って忽如として弥陀・釈迦という次第に変って来たのであります。


それは成程釋尊によって弥陀の本願というものが始めて真実の仏道であるということが明らかになって来たのでありましょうけれども、一度本当の道のあることを教えて戴いてみるというと、今度は阿弥陀仏の仏道の原理があって、始めて釋尊に創る所の仏教史が成立つことが知らるるのである。だからそれを法と機といいますか、仏道の法に対して正しく仏教というものが、始めて人間の世界に於てそれがはっきりとまとまりがついた。そういうものが機というのである。こういうことにしてお示しになってあるかと思うのであります。

(行信の道  17 道が教を生ずる機縁より)