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道が教を生ずる機縁-1 (6/2)

それでこの第一段の處では所謂歴史という方面からいえば超歴史といいますか、歴史以前といいますか、純粋なる如来の世界、これは自利・利他ということでいえば純粋に如来の自利自境界、全く純粋なる如来の因果というものは我々から見れば唯難思不可思議の世界でございまして、我々の理知を超越したものでありましょうが、それを具体的に申せば第三段に述べてある所の大行・大信であります。その大行・大信というものの体験、即ち信仰体験の事実というものを通してそこに感得する所の一如不可思議の世界であります。それがつまり如来の世界であります。つまりこれが、若し歴史的に考えますならば釋尊以前の仏法というべきものでありますが、釋尊以後、仏法というものは始めて統一した経典というものがあって、歴史というものが明らかに知られるので、釋尊以前の仏法というものは釋尊を通して始めて知られるのでありましょう。そういうように考えられるのであります。だから釋尊以前の仏法というものはどういうものであるかといえば、所謂この釋尊の出世の根源であります。その根源が所謂第一段に述べてある所の本願・光明の世界ではなかろうかと戴くのであります。

これは誠に茫然としたものでありますけれども、その始を知らない所のこの仏法の道、歴史というわけには行かぬ、道であります。所謂歴史というものは道のほんの一部分でありまして、道は始もなく終もない。人間の歴史というものは始あり終あるものである。その歴史の依る所、歴史の依って成立する所以、それがつまり道である。だから仏法の歴史というものは、仏道があって仏法の歴史というものがある。我々は仏教の外面的歴史的事実というものだけを見て、その依る所の仏教史の内面的根源の道という原理を明らかにしていないではないかと思うのであります。それを今明らかにされたのであります。

(行信の道  17 道が教を生ずる機縁より)