表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

まぁるいお念仏 (6/2)

私は浅学にして「浄土論」が読めません=理解できません。ですから、以下に書きますことは、あくまで「正信念仏偈」のなかの言葉として、私の思うところがどのようなものであるかということです。

遊煩悩林現神通 入生死園示応化

これは天親菩薩さまが「衆生を済度する利益」として挙げておられることです。それで、さて、我々の能行として「衆生を済度する」ということがあるのでしょうか。

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
というお言葉のあとに
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
と続くわけで、つまり、功徳の大宝海であるお念仏に帰入すれば、本願念仏をいただくならばという、いわば「条件」が「必獲入大会衆数  得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」だけでなく「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」にも付きます。

衆生を済度するということも、功徳の大宝海に帰入するならばこそであれば、これはやはり如来のはたらきであり、私たちにとっては能行ではなく所行であるのです。

全体的に思うことは、現生にて得る利益だとか、お浄土にて得る利益だとか、衆生を済度するだとか、こういうことは教えを学問する時にあるものであって、あるいはお念仏の徳を称える時にあるものであって、現にこの娑婆世界にある私たちにとってあるのは、ただ功徳の大宝海であるお念仏に帰入させていただけるかどうかということだけであるということです。

言い方を変えれば、私たちは「利益」ということを聞かなければ「功徳」がわからないものであり、だから「浄土論」や「無量寿経」というもの(順序が逆か)には、私たち衆生・凡夫というものを知り尽くした上でのご苦労があるということになります。

(ここから曾我先生の言葉)

南無阿弥陀佛は円満の大行であるから始も終もない。けれども何時でもそこに一念帰命、信の一念というところに始がある。信の一念というものがあれば何時でも念佛が出て来る。お念佛の始は信の一念という。それであるからして、もう信の一念から念佛は始まる。出来上った南無阿弥陀佛をみても始もなく終もない。だからしてこの一念帰命に眼を開けば何時でも南無の始は現在である。

(ここまで)

屁理屈を言えば南無阿弥陀仏に始まりはあります。法蔵菩薩さまがご本願を成就して下さって阿弥陀仏となられた、阿弥陀さまが(南無阿弥陀仏に)南無なされた、阿弥陀さまが仏であるばかりでなく、如来となられたときが始まりであると言えるわけで、しかし、私たちにしてみれば、すでに「できあがった南無阿弥陀仏」があるばかりで、それには始めもなければ終わりもありません。ですからお念仏もうすと言ってもそれは自力の心でもうすわけです。

帰入ということは、上に引いた曾我先生の言葉でいえば一念帰命。私というものが一念帰命に眼を開かされた現在、南無阿弥陀仏から離れて私であるにとどまっていた私が、始まりもなく終わりもない南無阿弥陀仏に摂取される。この現在に、いわば法蔵菩薩さまの誕生があり、仏道の歴史のなかに私が終わり、往生の道が始まります。

私という凡夫のその繰り返しが始まりもなく終わりもない円満の大行が円満の大行である所以であり、また証であると言えるのでしょう。