表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

『大経』と『観経』-1 (5/31)

以下は第二段でありまして、浄土の機縁に就てお示しになったものである。存覚上人は先ず依観経明教興由と解釈して居られます。そうしてみると第一段の方は別に『大経』に依ってということはなく、単に略標弥陀広大利益と解釈せられたけれども、勿論これは真実教たる『大無量寿経』に依って如来浄土の因源・果海をお示しになったのであります。この第一段は次の第三段の故知、円融至徳嘉号転悪成徳正智、難信金剛信楽除疑獲証真理也というより専奉斯行唯崇斯信というまでの一段と相対して、『大無量寿経』上下二巻の大綱をお示しになったのであると伺うことが出来るのであります。支那の興憬師の『述文讃』には『大無量寿経』上巻は廣説如来浄土因果とし、それに対して下巻は廣顕衆生往生因果と、こういう風に分つことが出来ると、これは御尤もなことである。そうしてこの『述文讃』の文は、『教行信証』の『行巻』にも御引用になっているのであります。

これは私思いまするに、『信巻』に聞其名号信心歓喜の聞という字を釋されまして、然経言聞者衆生聞仏願生起本末無有疑心是曰聞とあります。聞是名号というのは但南無阿弥陀仏という語を聞く但聞じゃないのでありまして、六字のいわれ、即ち名号に於て象徴せられてある所の、仏の本願の生起本末を聞いて疑心有ること無し、これは聞是名号の是という字を仏願生起本末、仏願を生起された所のその本と末というものは何であるかといえば、種々の説がありますけれども、私思いまするに、如来浄土の因果を本とし、衆生往生の因果を以て末とすべし、こういう風に戴いたらどうであろうか。これは尤も自分の考えであります。然覆求其本阿弥陀如来為増上縁と下巻に述べてある所の衆生往生の因果というものは、上巻の如来浄土の因果に基いたものであります。そういう風に戴くとして、第一段は根本の如来浄土の因果を挙げて、そうして仏因・仏果という根本仏道の体をお示しになり、第三段にはそれを根本としまして衆生往生の因果を成就せられたることをお示しになったのであろう。但し因果といえば、如来の方には因果を具してあるけれども、衆生の方には因だけしかないのでないかと、そういう工合に考えられますけれども、行信の因を挙ぐれば往生の果は自らその中に在ると御覧になりまして、根本の如来に就きましては因果を具さにお示しになり、衆生の因果の方に就きましては因を挙げて果を略したと見ても宜しい。しかし単に略したのではないのでありまして、文面を見れば円融至徳嘉号転悪成徳正智とお示しになり、或は難信金剛信楽除疑獲証真理とお示しになっているから、因の中に果を摂めてお示しになったと戴いたならば差支ないと思います。

(行信の道  第二段 浄土の機縁  16 『大経』と『観経』より)