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願力成就の意義-2 (5/30)

若し果上の仏力というものがなかったならば、因位の四十八願というものは徒に設けることになると曇鸞大師は力説して居られる。何故なれば、あの仏力というものに果上の無礙摂取の力があり、この体験が現生不退である。故に若し果上の仏力の証明がないならば、因位の未来往生の本願というものは徒に設けたことになり空想になる。随って単なる本願を信ずる信心は亦徒設仮令の臨終現前の自力の信となる。

度難度海ということは、それは未来往生成仏の益である。然るに無礙光明破無明闇恵日と、信心の眼を開かしてもらう、これは現在の一念に信心の智慧の眼を与えて下さる、そうして現生不退に住するのである。この一念の信は常に現行しているのである。信の初一念というと過去に済んだように思いますがそうではなく、常に現在に一念の信に裏附けられて、我等の信の相続の行というものがある。信前信後などということを考える、前と後というのは信と行との間、前後の間にどうしても隙があります。信の前念と相続の後念と固定しているならば、その中に何か隙があるのじゃないでしょうか。実はそうではないのでありまして、自力の信は何処までも唯信たるに過ぎませんぬが、如来回向の真信というものは恒に相続現在している行である。それは念仏本願の回向の信心なるが故に自然に所行の法を具して能信を成ずる。故に信は信の位としては純粋に疑蓋無雑の能信であって、能行でも所信でもなく、随ってその意義に於て現在性なしというべきである。唯夫れ所具の行に就て能具の信を現在と名くるのであります。之は行・信の義位を明らかにするものであって、具体的には念仏の信心こそは常に念仏の行に於て憶念不断であり、一生を貫通して現在一念である。それを信の一念というものがあって、今は已に過去に落謝し去って、次に後念が続起するというのではない。それでは憶念ということは成立しない。憶念こそ精神の本質でありまして、常に称名念仏の大行に於て、一念無礙の帰命の信が現行しつつあるのであります。憶念の心界には千歳の昔も現在と直接に接して、間に髪を容れぬのであります。名号は南無は必然に阿弥陀仏に連続し、阿弥陀仏は亦必然に南無に連続して、限りなく深く深く信心を掘り下げて已まないのである。之を本願回向の名号といい、称名憶念といい、念仏往生といい、本願自然の道というのであります。外の教の信というものはどういうものか知りませんけれども、正しき仏教の純粋能信の信というものは所行の称名を具して恒に現実である。如来回向の信であるが故にその信がやがて行となる。真実の現在は現行であらねばならぬ。現に在るということは現に行じつつあることであります。

(行信の道  15 願力成就の意義より)