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願力成就の意義-1 (5/29)

難思弘誓というものは南無の二字、南無の二字の中に阿弥陀仏の四字を摂めて度難度海大船と、こう述べたのであります。難思弘誓は本願であり、度難度海大船は大行である。即ち願即是行、願行一体ということを示した。無礙光明破無明闇恵日という言葉は阿弥陀仏の四字の中に南無の二字を摂めたもの。だから無礙光明ということは阿弥陀仏の四字であります。破無明闇恵日ということは阿弥陀仏の中に南無を摂めたのでありましょう。だから光によって我等に信心の智慧を与えて下さるということを示した。そしてここに述べてありますのは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏というものを南無という處に眼を開いて見るというと因位の本願力を顕す。又阿弥陀仏という四字に眼を開いて見れば果上の自在神力を顕す。之を願力成就といいまして、「願徒然ならず力虚設ならず、力願相符うて畢竟して差わず、故に成就という」と、曇鸞大師は『浄土論』の仏本願力の語を解釈し、「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり」。互に願と力とが差わず、「願以て力を成し、力以て願に就く」。我々は願力いうていながら唯願だけを見て居ります。仏本願力なるが故に、仏といえば如来は既に力である。だからして本願は願である。仏本願力であるからして願と力である。願と力とが絶えず立体をなしているのであります。

現今多くの人は唯本願ということのみを知って、特に重要なる今日果上の仏力ということの意義を了解していないのではないか。本願に対しては我々は絶対に頭がさがる。何故かというと仏が因位の本願修行に於て衆生の前に頭をさげておいでになる。これはどうしてそういうことを申すかというと、四十八願というが全体それである上に、『大経』の勝行段には仏さまは不可思議兆載永劫の間菩薩の行を修行なされた、そこを読んでみると先意承問勇猛精進志願無倦という。「意を先にして承り問う」。衆生の気の附かぬ時に仏さまの方が先に、何うであろうか斯うであろうかと仏かねて知ろしめし、そうして我等衆生に承問して、お前の心持ちはどうか、お前にはどういう苦しみがあるかというて意を先にして承問される、これが即ち如来因位の大悲という。之に対して無礙光明は智慧の形相である。光明は智慧であるならば難思弘誓は大悲の表現である。尤も智慧とか慈悲とかいうことは、いろいろに使われてありますが、弘誓は大悲であり光明は大智である。因位は大悲であり果上は智慧であるという。因位の弘誓は母の如く無礙の光明は父の如くである。或は因位の弘誓は地の如く果上の光明は天の如くである。だから難思弘誓は我等を載せて渡すものである。だから日本の工兵河の中に入って自分が橋の代りになって、頭の上に将兵を渡してやる。新聞を見るというとその写真が出て居ります。本願というものは船筏になり、橋になり、或は白道となり、或は大地となり、そして我々に踏みにじられて黙々としておいでになる。これが即ち因位の本願の姿である。だからして我々は如来の因位の本願に対して愈ヽ頭はあがらぬわけです。それこそは絶対に偉力を有つ、それに対しては絶対に服従をさされたんです。如来自らの絶対服従の御姿に対し奉りては本当に頭がさがる。然るに無礙光明というものになりますというと、我々は何か知らんけれども、本当に自由といいまするか、今の本願に対して服従というならば、無礙の光明を念ずる所には私共は絶対の自由というものを感ずる。「心廣く体胖なり」という完全円満なる所である。私共は矢張り果上の神力自在の光明の中にあって、そうして因位の本願力の有難さを知らして戴くのでありましょう。

(行信の道  15 願力成就の意義より)