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無礙の光明と全我の闇夜-2 (5/27)

してみれば無明の闇を破る所の恵日というものは何であるか。それは信心の智慧である。一般仏教学では信というと恵ということは別のことでしょう。然るに阿弥陀仏の法を知る所の智慧というものは如来回向の信である。我等凡夫の智慧ではなく仏の智慧である。仏を信ずるということは仏を見ることである。見るとは即ち知ることである。知るとは智慧である。だからして如来の無礙の光明はやがて衆生の仏智疑惑の我見の闇を破る所の信の智慧をなって仏自らを知る。仏を知る所の信心の智慧は衆生を照す所の如来の智慧である。かくの如くして痴と疑は一体であると共に、当然恵と信とは一体である。それを信恵或は信心の智慧と名けるのであります。

しかしながらここには疑惑の闇を破する恵日といわずして、破無明闇恵日と一般的な言葉を使ってあるようであります。けれども仏の智慧を光という、仏智の光という。光というのは何であるかといいますというと、衆生の無明を破って仏自身が仏を顕すのみならず、仏は仏自らを照し尽して遂に衆生の不了仏智の無明の闇を破って、衆生をして信心の眼を開かしめようとする所の恵日である。云い方が劣くて文意をよく顕す力がありませんが、仏の智慧を光という、光という方が最も具体的である。光は智慧の形、而もその如来平等一如の智慧に主客差別の形なければ不可思議光と申すのである。光というものは智慧の形である。唯外部のみを照す光じゃないのでありまして、亦内をも照す光である。仏が内を照す智慧の光によって我等の無明を破って下さる。外をも内をも内外無礙に照す。且く外に十方世界を遍く照す方面を色光、内に念仏衆生憶念摂取する方面をば心光という。これはだからして、かくの如く光明といい或は恵日ということは、それは単に内を照すというだけじゃなしに、矢張り全法界の衆生を照すということを最もよく表す為にそこに光明という。これは内外一如の本能の光明であるということを顕す。一如の光のみ十方に遍慢して無礙の力を以て我等衆生の無明の闇を破り、一念歓喜する人を必ず滅度に至らしむる。

(行信の道  14 無礙の光明と全我の闇夜より)