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無礙の光明と全我の闇夜-1 (5/26)

次に無礙光明に就きまして、無礙はさわりなしで、何ものも光明を障えることが出来ない、又何ものにも光明は礙げられない。仏の智慧、仏の光は何ものの内面をも自在に通徹し、衆生の全自我の妄念妄想の千歳の闇室を照し破って行くというのが無礙の光明であります。光明というのはつまり仏の智慧の体相であります。仏の智慧を象徴して無礙の光という。仏は光である。要するに仏は光を以て形としている。仏の形は唯光明である。阿弥陀は光の形相である。無礙光の如来自在神力能く無明煩悩の闇を破ると、破無明闇は如来果上の光明の神力の用を挙げたのでありますが、光明と無明と相対し、衆生の無明煩悩と如来の智慧というものとをそこに相対してあります。即ち衆生の無明の闇を破って我等に信心の恵眼を開かして下さる所の明浄の恵日である。ここには前の如来因位の弘誓が難度海を度する大行の船であるに対して、この恵日は大行に対する大信というものを特に顕して、下の第三段の名号と信心とに対応していると、こういう意味を有っているのであると思うのでございます。

ここに無明闇とあります。無明というのは一般仏教の上に於きましては如実に真如実相を了せざる根本煩悩の愚痴であります。しかしながら『大無量寿経』の意によって、特に無礙の光明が破る所の無明の闇というものは何であるか。一般的にいえば愚痴であるということが出来るけれども、特別なる意義は何であるかと申しますというと、これは『大経』智慧段の不了仏智である。仏智を了せざるものである。無はこれ不であり明はこれ明了である。即ちここにいう無明は不了である、不了仏智である。こういう意味でありますから、不了仏智の無明ということは仏智不思議の疑惑である。業道の自然に徹せず、徒に現世の罪福を信じ無礙の仏智を疑うのである。一般仏教の上に於きましては、疑というものと愚痴というものは別でありますけれども、阿弥陀仏の智慧というものに対しては、不了仏智の疑こそ無明の闇であります。固より仏智疑惑というのは決して仏法の因果の道理を疑うのではないのでありまして、本当の諸仏無上の智慧を知らないのであります。為に仏法の三世の因果を単なる一世の罪福に限定するが仏智疑惑の根本であります。これを真宗学の上では痴疑一体という。諸仏如来無上の智慧を了せず、徒に罪福に拘り、超世の本願を疑うのは真実の根本無明であります。

(行信の道  14 無礙の光明と全我の闇夜より)