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業道と理想的自我の象徴-3 (5/25)

今日一般に自覚というているものは、実は我見であって真の自覚ではないのでありまして、阿頼耶識なる業果の世界こそ、法界の事物は相互に皆直接に脈々として連続して血が流通している。内なる世界と外なる世界と直接して対立しつつ而も内に一如である。それが阿頼耶識の世界の内観でありまして、この一如の世界に於てこそ各自の久遠の個性も成立するのであります。だから本当の美術というものは、仮い一の山水というものを描いても、そういう立体的のものを描き出すことは出来ずして前六識の世界だけなら、瞬間的なる平面の写真に過ぎない。現行の山河大地は生きて千古の昔の等流の英姿を現在一刹那に生かしている。現在の山河に於て過去千年の歴史的現行の連続の背景が目前にあり、そうして未来永遠に向って動き出す一定の方向を闡明している。之を刹那の現行というのである。行というものがなければ単なる現在は一切が夢である、随って刹那の現在には一定の方向があり、茲に独自の性格を有っている。山河大地それぞれの方向があり性格がある。敢て走る馬だけに方向があるのではありません。山は静止しているのだし、馬は空間的方向を有っているが、山は時間的方向を有っているといい得る。それだから現在一刹那に無限の過去と無限の未来を顕している。それの中心を現行という。それに於て現行する所の過去と未来との原理を種子という。之を種子生現行というのであります。象徴というのは生命の世界に於て始めて成立するのであります。

我々の本当の本能の世界というものは、我々の迷いの自我を契機としてそうして象徴する世界というものである。衆生の自我妄念に随順しつつそれを因とし、而もそれを反転して而してそこに象徴の世界というものを出生するのであります。我々の自我の迷いというものを因として、その中にこの迷の中に迷を超えて、象徴の世界というものがそこに在るのである。

(行信の道 13 業道と理想的自我の象徴より)