表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

業道と理想的自我の象徴-2 (5/24)

それは有情であるというというそこに生命というものを内に感ずる、或は血を感じ肉を感じ、或は骨を感ずる。それは自身のものとしては形に見えないものであるけれども、もっともっと直接に感ずる。それは現行識としての根本主観たる阿頼耶識の感ずる所であり、能感はそれの所感の有情を以て直に自己の体とし、それと安危死生を共同にするのである。我々は一般に眼・耳・鼻・舌・身・意の六識を以て直接自明の事実的意識としているが、それよりも直接なる事実は六識が内的依處として前提する六根であり、それが即ち阿頼耶識の現行の事実であります。現行識としての阿頼耶識の具体的な生命というものは血であり肉であり骨である。そういうものが脈々と動き、その動きを支える力、骨の力、そうして諸の骨を又動かす力を与える、そういうものが肉である。その肉をして潤いあらしめる所のものは血である。それを直接に感覚する、即ち内面的に感覚する。

そういう骨肉であり血であるものを内感すると同時に、外處には山河大地を感ずる。京都の加茂川の橋の上に立つと北東方に聳ゆる比叡山を見る。あの比叡山というものは理論上何等自我に関係がない。誰にも同じもの、誰にも共通のものであります。私には特別の関係を与えるということはない。唯偶然のものにしか過ぎないものである。然るにも拘わらず、我等は山河大地、或は日月星辰を見る、そうすると何か知らんけれども、何か自分の肉と血というものと深き因縁を感知せしめられる。前六識を以て見るのは写真でしょう。本当の美術というものになってくると、外側を写さずに深く内面に触れる。そこに生きている所の一如の山河大地を感覚する。先に申しました所の内界の象徴、本能の象徴というものはそれを指すのでありましょう。象徴というと何か単に麗しい写真の如くに考えますが、何かとそれがぐんぐんと我が胸に迫って来る、宿業のつながりを有つ。阿頼耶識の上に感ずる所の自然というものは、そういう自然である。

(行信の道 13 業道と理想的自我の象徴より)