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佛に南無するは-2 (5/22)

真の意味に於て業というものは、矢張り「法蔵菩薩の出世善根の大願業力」が業というものでありまして、我々が普通業というて居りますのは無明に覆われ我執というものに抑えられて、そうして如来の因縁の道理を直観することが出来ずして、私の計いを交えて行動するのであります。自分の力で動いているのであると妄執し、如来の大願業力の上に自業自得で自ら苦しんでいるに過ぎぬのであります。そういう姿が見える。そうして本能の世界に於て純粋なる象徴荘厳の世界がある。尚その点に就きましても甚だ明白を欠いている所がありますが、又考え直しまして明らかにして行きたいと思います。今如来の因源・果海を顕すこの言葉は昔から伝統の聖典の言葉でありますけれども、祖聖は全く御自分の言葉として、聖典の言葉がそれがそのままに出て居ります。聖典の言葉をつなぎ合わせていうているのでなくして、聖典の言葉が自然に御自分の言葉になって出ている。全く茲に新しい、未だ嘗て出なかったことが、古い言葉に新しい意味が出ているということであります。こういう風なことを私は感ずるのであります。

仏身・仏土の体、南無阿弥陀仏である。我々が南無阿弥陀仏に於て本願・光明を念ずる時、自ら難度海を度し無明の闇を破して戴くのである。茲に智目・行足という語を想い出す。度難度海大船というのは行の足であります。つまり我等衆生の行の足である。如来の難思の弘誓を念ずる時、行の足を我等に与えて戴くのである。又破無明闇恵日というのは智慧の眼である。弥陀正覚の光明無礙力を念ずる時、その遍照の恵日は我々に信心の恵眼を与えて戴くということになっているのであります。だからしてもう一つ言葉を換えれば、法蔵菩薩は我々に足を与えて下さる、勿体なくも我々の足となって下さる、足下の大地となって下さるるのである。又船である、車である。正覚の阿弥陀仏の光はこれ天である、頭である、太陽である、そうして我等の智慧の眼である。この行は正しく象徴の力用であり、この智はこの象徴ををして純粋ならしむる批判力であります。この如来浄土の象徴の大事業は衆生をして自我の業道を超えしめんが為である。随って業果ということは自我の象徴である。

行信の道  12 佛に南無するは法爾の土に南無するなり より