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佛に南無するは-1 (5/21)

この弘誓の体は南無阿弥陀仏と申しますけれども、我等にあっては畢竟ずるに南無に帰著し、唯南無するということ以外にないのであります。一念南無する立處に阿弥陀仏が現前し給うのであります。阿弥陀仏は頭のさがる南無の處に住立し給う。頭のさがるということが直に頭をさげよという本願招喚の勅命の具体的事実である。頭をさげよという命令を聞いて、然らばというて頭をさげるのじゃない。頭のさがる時がさげよという呼び声を正しく聞いているのでありまして、やがて南無する一念こそ正しく南無せよと命ずる所の呼び声そのもので、随ってそれは直に深く南無せしめ給う所以の如来の願心を開顕して、そこに正しく現行の如来の摂取不捨に接するのであります。この体験が阿弥陀仏即是其行でありまして、また本願名号正定業であります。是れ即ち称名が即ち憶念なる所以であり、南無阿弥陀仏の六字の名号の所以であります。然れば即ち南無は即ち本願を憶念する念仏であり、阿弥陀仏は即ち光明を名号する称名である。その本願は浄土往生の為であり、その光明は摂取不捨の為であります。茲に弥陀の浄国は南無阿弥陀仏の本願・光明を以て荘厳せられたる無作自然の国である。南無阿弥陀仏というと単に仏のだとばかり我々は思うていますけれども、主なる如来を通してその荘厳し給う所の浄土を南無し念願するのであります。

故に我々は南無阿弥陀仏という時に浄土の全体を感ずる。国土を離れて仏だけを考えるのは理知主義者でしょう。仏は父であり国土は母である。父と母である。そして我々は子である。だから単に阿弥陀仏というだけでは国土はありません。正しく南無阿弥陀仏という所に国土の主として阿弥陀仏がある。本当に頭がさがるということは国土を感ずるからであります。その国土というものを感ずる所に君民一体は成ずるのであります。国土を抽きにしては君民別体である。国土に於て始めて君民は一如である。それは国土こそは真実に無為自然を顕するものでありましょう。

(行信の道  12 佛に南無するは法爾の土に南無するなり より)