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難度海と業道自然-2 (5/20)

だからして弘誓という言葉をかくの如く解釈して参りますと、難度海ということも単なる生死の苦果だけのものじゃないと思います。業に裏附けられて、本当にそれの報果として、内外から我々を苦しめるのじゃないかと思うのである。単なる果だけなら水に描いた絵のようなものであります。我をして生ぜしめ我をして死せしめる業が生死の報果を呼び出し、死し生きるという重大な意義を有たせるということは、業によってではないか。是れ誠に本願真実ということを特に強調なさる思召を以て、今弘誓というて衆生の罪業というものに深く響かしめ、生死の苦しみというものが態ヽと出て来るようにせられたのであろう。だから水・火二河というものもそうでありましょう。単なる貪欲・瞋恚は無明の我執であって業にならぬ。業というものに正しく動いて身・口・意の業となる時、火の河・水の河となって業道自然の世界として荘厳象徴せられ、業果というものが成立するのであります。矢張り私は茲にはどうしても法蔵菩薩の大願業力、それは一如法界の象徴荘厳の願力の道こそは、迷妄なる自我の象徴なる業道の虚偽の世界の何ものをも燃し尽さねばおかぬという所の、浄土を所依としつつそれを生成する力であります。この大願業力の前には、自我の世界の何ものも無為自然に否定せられるのである。その否定の当体自然の浄土荘厳である。それの根源が難思の弘誓であります。だから茲に唯大願といわずに今曇鸞大師の『論註』に「佛土不思議に二種の力あり、一に業力」、願力といわずに略して業力、詳しくは大願業力といってある。その業力は単なる自我の世界の業力ではない。「法蔵菩薩の出世善根の大願業力」である。一如法界の内に燃えている所の大願が人間自我の世界の何ものをも焼き尽す、それがつまり大願業力といわれる所以でないかと思うのである。それは何であるか、他人の力を否定するのは自分自らを否定するからで、一切を焼き尽すには先ず自分を焼き尽す所の本当に謙虚な、見えざる忍辱の力でないかと思います。「いたりてかたきは石なり、いたりてやはらかなるは水なり、水よく石をうがつ」ということがあります。難度海は石である。、難思弘誓は水である。自己否定の力が自然に一切を否定せずんばおかぬのであります。不可思議兆載永劫に於て法蔵菩薩は乃至一念一刹那も御自身を限りなく否定せられたのであります。その力が遂に能く一切衆生をして自力無効を知らしめ、本当に難度海というものはつまり我々の我慢我情の角を折って下さる。我慢我情の角ある為に我々は自ら苦しんでいる、その角を折って下さる所に我々は救われるのであります。

ここに度難度海とは、度は滅度の度であります。自我の妄執が壊滅し生死業道海を超え度り無為安穏の彼岸に到るの義である。滅度は涅槃であります。本能の一如の法界に於ては本来涅槃である。本来寂滅に迷うて我慢我情を張っているのでありましょう。それを滅度して阿弥陀仏が如来の浄土へ迎え取って、そして自ら我々が頭をさげるのでなく自ら頭がさがる所に遂に往生したのである。本来滅度の中にあって、母親の懐の中にあってじたばたしているのでありましょう。じたばたしているそれを抑えるのは、無理に強張った力で抑えても駄目でしょう。赤ん坊は抱き方によって母親を感知するそうであります。母親の愛は子供の抱き方一つで解る。深く柔かな胸に抱いて下さる力には遂に反抗することは出来ない。私は善導大師の六字釋により、難思弘誓というものは言南無者即是帰命亦是発願回向之義であり、度難度海大船というのは言阿弥陀仏者即是其行と、こういう風に戴いて差支なかろうと思う。如来の弘誓が難度海を度する行の船である。如来の本願は人間の単なる願と違いまして、衆生の為に生命賭けての御祈りである。人間の祈りは行なき虚仮の単なる願に過ぎない。

(行信の道  11 難度海と業道自然より)