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難度海と業道自然-1 (5/19)

ここに難度海とは、唯惑・業・苦の三道中の第三の生死の苦果をいうように聞えるのでありますが、どうも私はそうでないと思います。成程、一往見れば下の無明闇というのは生死の原因、自我の妄執の方であり、難度海は生死の結果の方の如くである。是れ即ち難思弘誓は因位の本願業力、無礙光明は果上の自在神力である、因位の力が我々の未来の生死の果を度し救うて呉れる、果上の力は我々の現在の迷の因たる無明を打ち破る、かくの如く因と果に影略互顕する文章の綾である、成程一往はそう聞える。しかしどうも私思うに、単なる生死の苦果でないのであって、それは矢張り具体的なる業道因果でしょう。即ち果を感ずる所の業、果の中に業というものを包んで示されたのでなかろうか。

それに対して如来の大願業力というものを特に示す為に、本願というよりは弘誓という方がいいのじゃないか。願は仏御自身だけの主観的要請のように聞える。誓という時になると正しく衆生に対して約束即ち誓約をなされる。学校へ入学を許されると誓約書を出す、誓うということは何であるか、誓うということは結果を約束するということ、結果を約束するということは約束を果すように自己の生命を捧げることが誓うということ、誓こそ真の行であります。願という時は猶未だ心の中にある、誓という時は最早や言辞であります。それ故願が力となるには誓というものになる、誓という所に始めて意業となる。業こそ報果というものを約束するものである。業は果報の直接原因でありまして、業と果というものは全く紙の表裏のような一体のものなのであります。それ等の意味を特に強く表そうとして、本願と云わず特に弘誓という言葉をお使いになったのではないかと思います。難思、そこに我等の自力無効を顕し、絶対の服従、絶対に信頼せよということを語って居られます。

(行信の道 11 難度海と業道自然より)