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難思と無礙 (5/18)

次に難思弘誓の難思の語は、直に我々の頭に浮びますことは仏の十二光の中の難思光の名でありまして、次の方に無礙光明の無礙光に対して特に難思弘誓と出させられたのでありましょう。且つ難度海というものに対すれば、自らそこに無理なしに難思光のお言葉が出て来たのではないかと思われます。難思というのは、大体十二光仏中に於きましては、十二光と申しますけれども特に重要な名は無礙光と難思光との二である。だから天親菩薩は帰命尽十方無礙光如来と讃仰し、曇鸞大師は南無不可思議光如来と嘆美して居らるるのであります。先ず尽十方無礙光の尽十方は、これは十二光の中では無辺光でしょう。東西南北四維上下の法界の真中である。法界無辺際故に法界は到る處真中ならざるはない。即ち無辺光である。十方の際を尽して光明の自体円満遍照して、その作用自在無礙である。何ものにも障えられず、何ものにも礙げられない。そういう風にして平等無礙に善悪の衆生を摂取し、自在に統摂することが出来る。その光景は「盡十方の無礙光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」である。無礙光というものはだから積極的に衆生摂取の徳用を現す場合で表徳門である。之に対して難思光というものは消極的の遮情門というべく、人間の有限なる理知的経験を以て計度することは出来ない。人間の思想を超え、人間の思惟理論を超えているというのを難思というのである。だから無礙という方は仏の方から云ったものでありましょう。難思というのは我々衆生の方から云ったのであると思います。難思は全く我々人間の智慧を以て計ることは出来ない、自力は無効ということを顕している。然るに無礙の方は如来の自在神力、絶対自由の如来の大能を顕したものである。如来の大能に対して人間の無力、分別の力の全く無効を示して、先ず難思光仏という所に絶対的に如来に帰するのである。如来に帰するには自力無効ということを知らねばならぬことを示さんが為に、最初に難思弘誓と示されたのではないかと戴くのでございます。

弘誓は本誓とも弘願とも誓願ともいろいろの言葉がありましょう。普通本願と仰せられてもいいのでありましょうけれども、ここには態ヽ特別に、本願というと平常余り聞き馴れている言葉でありますから、平常用いない言葉を特に使われたのではないかと思います。平常使っている言葉では注意して聞かない、だから態ヽ聞き馴れない言葉を特別にここに掲げまして、我々に深き注意を喚起せられたのでないかと思います。こういうようなことは何でもないことのようでありますが、一言一句に就て深き御注意があることと思われます。

それからして「難度海を度する」、難度海というのは龍樹菩薩の『易行品』に「彼の八道の船に乗じ能く難度海を度す」という言葉に見出してあります。難度海というのは生死の苦海である。即ち衆生の無辺の大海であり、業道自然の大海である。だから「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」。この過度しがたき業道の大海を難度海と仰せられた。度難度海はこの度り難き生死の大海を度す、難の字の下の度はわたりであり、上の度はわたすである。即ち下の方は衆生自ら度る、上の方は如来が度す。下の度は自力の無効を示し、上の度は他力の大能を示すのでありましょう。

(行信の道  10 難思と無礙より)