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国土と有情-2 (5/15)

一体、業の世界というものは、例えば普通我々が現に感じつつあるのは迷いの業の世界でありますが、その業の世界というものは、その根底に純粋業によって感ずる所の純粋の果報というものは象徴でなければならぬ。但し我々は無明に覆われて我執を起し、所謂「我の相に愚にして無我の理に迷うが故」に逆に実我の執を起す。そうして真実の法というものは内外の諸の因縁によって動くものであるのを、単独なる自我が自由に動くのであると、かくの如くに妄執し、そうして純粋なる業の上に自我が自由に為すものであるとして、自我の権利を主張する。それと不可分の結果に於て、自我の所有権を主張することから却って逆に結果に束縛せられて、それを因なる業から切り離して実体化する、かくして業の自然の一如の象徴の世界を概念化し実体化する、之を転倒の世界という。

実体化するということは迷いでありますけれども、しかし如何に無窮に我々有情が業界を実体化しても業の本性が永遠に実体化されない所が、本当の意味の法の世界である。それがつまり本当の菩薩が感ずる所の純粋象徴の世界である。これが浄土というものである。だから我々が業というものを明らかにするには、象徴の世界というものを前提しなければ業というものは成立しないと思います。何が業を実体化するかと云えば、我執、即ち自我感情である、即ち人格主義である。理想主義、人格主義は我執の迷妄である。この迷妄が業自体の純粋象徴の作用の上に一の実体的なものを迷いの為に描き出して来たのであります。本当に純粋なる象徴の世界というものが無いならば、我々の迷いの世界というものも成立しないじゃないかと思うのであります。

我々は国土というと単に眼に見える岩石が風化したる泥土、そういうものが国土であると独断する。誠に久遠の尊厳なる本能の象徴であるということを、それを本当に理解出来ないならば、本当の芸術の世界の如きものも一時的なる人間の構想に過ぎぬではないかということになります。だからして我々は国土というものが、何も我々に便利はよかろうが、よかるまいが、そういうことには一切関らないのでありまして、そこに理論も何もない。これが我々日本人が御国を愛慕する純粋感情なのでありましょう。
(行信の道より、昨日の続き)