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一如は本能-2 (5/12)

だから我々は真如とか一如とかいうことも聖道門流に考えて来てはならぬと思います。『華厳経』とか『涅槃経』とかに書いてあります意義をば最も近い所の、つまり理知の根本に、理知の土台になって卑しめている所の本能の中に、そこに本当の世界があり、自覚の根源、而して理知の根が本能にあるのであるということを明らかにして来ることが、これが仏法の本道としての浄土の道であります。我等は見ゆるものを通して見えざるものを見る所に、清浄の国土があると思うのであります。見えざるものを見る時に、始めて根本精神の安住所たる国土というものを感ずるのでありまして、だから純粋清浄の国土、本当の浄土は広大無辺際である。限り有るものに於て限り無きものを見出して来る所に本当の国土観というものがあり、見ゆるものを無限に超えて純粋に見えざるものを内蔵してこそ、我々の祖先は大日本と讃仰しているのでありましょう。

真の仏土というものはどういうものであるかということを、今我が祖聖が第一に明らかにして下さるのではないかと思うのであります。誠に国土というものを徹底的に明徴にするのが仏法の使命ではないかと思います。我等人間には真の国土を本能に与えられて在る。だから我々は何の不足もないのであります。生れながらにして真の国土を与えられているのであります。その真の国土の中にあって、真の国土を知らないのである。山の中に在って山を見ざるが如くである。本当に真の国土の国中人天であるということを知らしめてもらうことが、仏の国に生れるということである。与えられたる所の国を見出して来るということの外に、仏の国に生れるということは別にないことじゃないかと思います。これは『教行信証』の『真仏土巻』というものに特に明らかになさるのであって、『略文類』なんかは『真仏土巻』というものは無いから、有っても無くてもよいものであるという人があるが、そうではないのであって、『廣文類』の真仏土というものが基礎になって、そこに真実の教・行・信・証というものが成立するのでなければならぬと思うのであります。
(行信の道より、昨日の続き)