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仏国土の意義-4 (5/10)

私は国土というものは理知の要求に対して与えられたものでなくて、久遠の本能の中に自然に与えられる、随って唯本能によってのみ感覚する所のものである、内なる本能が外處に感ずるのである。尤も本能に於ては内と外とは一体でありましょう。国土を外處に感ずることは同時に有情を内に感ずることでなければならぬと思います。本当に本能に於てのみ内處なる有情自他の身体相互と外處として共同に感ずる国土、山河大地とは一如法界なるものでありましょう。そうして又同時にこの二重の二者は全く本当の意味に相対立しつつ、各自に絶対なるを得るのであります。国土を真実に外處に感ずるは内處に感ずる所の有情と対応するからである、こういうことが云えるのでないかと思うのであります。国土こそは見えないものがそこに始めて見えているのであります。見えないものを見せしめるのが国土であります。国土に於て始めて我々の理性は一般に見えるものをのみ見ている第二義的外面的なものであります。我々の本能は見えざるものを第一義的内面的に見るのであります。見えるものなら更に見る必要がないのであって、それは唯見る主観の反省に於てのみ意義がある。見えざるが故にこそ本当に見るということが成立する、それが即ち本能の世界である。だからして見ることによって見えるものを超えて、愈ヽ見えざるものを見出して来るのでありましょう。見えるものは限られたものであり、見えざるものは無限である。即ち有限に於てのみ無限を見る。それがつまり本能の世界であります。
(行信の道より、昨日の続き)