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有量・無量 (5/10)

南無阿弥陀佛は利他円満の大行。円というものは始もなく終もない。円を描いてみればちゃんと始がある。しかし円をみればどうして描いたものか、円の始は何処でしょうか。円には始もなく端もない。円に端がないから円は描かれないものか。端のないものをどうして描くことが出来るか。(曾我量深師『真宗の眼目』より)

(ここから管理人の文章)
阿弥陀仏があって南無阿弥陀仏がないということはなく、南無阿弥陀仏があって阿弥陀仏がないということもない。

如来とは真実の世界から来たったもの、それははたらきである。それで、南無阿弥陀仏といい、南無阿弥陀如来とはいわない。南無阿弥陀仏がもっとも具体的な如来である。

円満の大行である南無阿弥陀仏に摂め取られるとき、私の行でない南無阿弥陀仏の始まりがある。それは私の終わりであり、私でなくなったものの始まりである。

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数(現生での利益)
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身(浄土での利益)
遊煩悩林現神通 入生死園示応化(衆生を済度する利益)
こういった区別があるのは方便としてである。それはつまり説明であり、説明を要するのは有量の世界でのことである。

無限を2で割っても56憶7千万で割っても畢竟じて無限である。無量の世界のなかに区別はない。限りがないとはそういうことでもある。限りがあるものは限りのないものに摂め取られ得るけれど、限りがあるものは限りがないものを思惟することもできない。
(ここまで管理人の文章)

南無阿弥陀佛だけがある。南無阿弥陀佛の外に佛さまはないものだ。こう云うてもよい。この六字の中に佛さまはおいでになる。阿弥陀如来という御方は六字の中においでになる佛さまである。阿弥陀如来とはどんな御方であるか。六字の名号が阿弥陀如来である。それが本願力である、だからして如来の本願力というのは南無阿弥陀佛である。だから佛法は南無阿弥陀佛が唯一の存在である。(曾我量深師『真宗の眼目』より)