表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

総序の文段-3 (5/4)

そこで私は初の三段を一括して、これは先ず『教行信証』の一部の大綱を述べるのが即ち五段中の前三段の総意ではないかと思うのであります。次に将に述べんとする所の六巻の『教行信証』の法義大綱を先ずここに述べられたのが第一大段ではないか、そうして噫という處からは第二大段でありまして、正しく法に遇わして貰うということは容易でないことである、法に遇うということは、御自分からみれば偶然卒然のことであるけれども、それだけ如来の方に於て久遠劫来不断常恒の摂取不捨の必然の尊い深い御苦労というものがある、誠に仏に遇うということは大信の機を握るの一事であって、如来にあっても亦衆生にあっても、容易ならんことであるという深い感銘から、更に御自分がここに、今已に三国七高僧の伝統を承けて自分が救われているのである、この事実はただごとではなく本願の歴史的大事実でないか、ということをお感じになりまして、自分の獲た信心というものは決して一人に私すべきものではない、だからして自分は己の拙さをば顧ずして慶所聞嘆所獲矣と、所聞は行であります。所獲は信であります。所聞の大行を驚喜し、所獲の大信を讃嘆して、おこがましいことではあるが我が身の卑しきを顧ずして、即ち所謂法の為に身を忘れて述べさして戴くのであると、こういうことを表して居られるのでありましょう。教・行・信・証の大法をお述べにならずにはいられないという意を、この第二大段に表して居られるのであろうと、私は戴いてみたいと思うのであります。
(行信の道より、昨日の続き)