表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

『教行信証』の外題と内題-3 (4/30)

教は単なる仏祖自証の譬喩的暗示の教示であり、行は自力の起心立行であり、証は随って自性唯心の独我の化証である。随って或は唯教のみあって行なく、教・行あって証がないということが考えられる。これ等の自力各別の三法に簡んで、如来回向の無作久遠の三法の意義を明徴にせんが為に、行を開いて信を立て、教・行・信・証という独自にして同時に法爾自然の教相を建立し、この四法は全く一如にして各自に円満成就真実の絶対の法でありまして、教がやがて行を成じ、行はやがて信を成じ、信はやがて証を成ずるものでありまして、教・行・信・証、或は又その根源を求めてみれば、真実無作常住なる仏土の純粋本能の世界より現れて来たものである。

だからしてこの四法は皆真仏土に裏附けられて体一なるものでありまして、随一を挙ぐれば他の三は自ら具するもので、真実円満の教を念ずればそこに自ら真如一実の正行があり、速疾円満の大行を念ずればそこに自ら疑蓋無雑の正信があり、円融無礙の能信を念ずればそこに立所に無為自然の真証がある。随って真実一如の極証があれば、そこに神通応化という還来穢国の自在の妙用が現れて来るとい確証を得ることが出来るのである。つまり四法各自に絶対の故に無礙に相対連続して一如である。
(行信の道より、昨日の続き)