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無碍の光益 (4/26)

帰入功徳大宝海   必獲入大会衆数  
                    
得至蓮華蔵世界   即証真如法性身  
                    
遊煩悩林現神通   入生死園示応化


浄土は一心によって開かれた世界である。純粋な世界は純粋な信心に開かれる。それは人間にとって、あってもなくてもよいという特別な世界ではない。また人間の理想的な世界でもない。また人間を延長し、いろいろ人間をつみ重ねた世界でもない。いうなれば人間を完全にひるがえし、質的に転換する世界であり、それであればこそ、人間が真に安んずる世界なのである。

だいたい、土ということであらわされるのは生活である。生活というものは、主体と環境によって成りたつものである。生きているということは、内に主体をもち外に環境をもつという、この二つを含んで土とあらわされる。私たちはまず環境があって、その中にそれに支配されて住んでいるように思うが、両者は離れてあるものではない。内に眼があることが外に色があることであり、人間である私がいることが、世界を人間世界にしているのである。身も世界も、主体が業によって感覚したものであり、それが主体の生かされる場所なのである。したがって身も世界も業によってかざられている。これが荘厳というものである。

浄土も穢土も荘厳である。浄土は浄らかな業によって、穢土は汚れた業によって荘厳されている。この二つの世界はたがいに深い関係をもっており、穢土を切りすてれば浄土もない。区別されることによって結びつけられている。それを転という。穢土を転じて浄土とする。浄土は本来の世界であって、浄穢をはなれているが、その一如平等本性のまま、穢濁の衆生を摂化する如来の願心の荘厳を、天親は蓮華蔵世界とあらわしていられる。ここに凡夫が帰命の一心によって、真如法性の身を証するいわれがある。

(教学研究所編『正信念仏偈』無碍の光益より)