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欲生我国 (4/22)

だから欲生は第十八願の中にあって而も第十八願を超越して、第十八願の根元となって欲生は内に第十八願を現わし外には二十の願を現わす。外からみれば二十の願、内からみれば十八願。こういうものです。だからして多くの人は徒らに欲生の外相をみてそうして自力なりと悲しむ。けれども欲生の内面をみよ。こういうのであります。もう欲生というところに総べての仕掛けがある。そういう不可思議の仕掛けというと神秘主義のようでありますけれども、南無阿弥陀仏という現行の果体を持っているのである。その原理が欲生我国でありますからして、その欲生にそういう仕掛けがある。総べて仏法の問題というものはあらゆる問題の根元は皆欲生にある。欲生というものが吾々人類に与えられた課題である。こう私は戴いているのでございます。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

まあそういうようなもので話がむづかしいようであります。だからしてこの欲生というものが即ち、産むとか生まれるとかいうことが、これが思想界として正しい思想でないかと私は思います。この頃は何かというと創造、造るということを云います。けれども仏法は産むということ生まれるということであります。決して子供というものは造ったものでない。子供は生まれたものである。単に子供のみではない。この世界に皆生まれたものである。これはやはり皆産む生まれるというそういう関係で成立つ。外国の思想は造るものと、造られるものという関係で成立っているている。だからしてその流を汲む現代人は神に造られて、そうして神に真似て人生を造って行こう。そういうように考える。人生を造り文化を造り歴史を造る。何でも人間は神さまと同じようにものを造ろう。こういうように考えております。造られたものは遂に又造られたところに満足しないのである。産み出されたものは産んだものと競争しない。産み出されたものは常に産んだものを親として、そうしていくら自分が偉くなっても生まれたものは常に自分を産んで下されたところの親を忘れないと私は思うのであります。造られたものは創ったものに対して恩が無いと思います。なぜかならば創ったものと造られたものとの間にそこに一体の繋りがないからであります。創ったものと造られたものとは偶然の関係にしか過ぎない。産んだものと生まれたものとはそこに久遠の繋りを持つ。そういうところに仏教即ち我々の伝統の道というものと根本の違いがある。こう私は思うのであります。