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果遂の誓 (4/20)

やってみもしないでよい加減のことをしてどうしても駄目なものだ、どうせやっても駄目なものじゃ、やらん方がましじゃ、それは信楽というものではない。何処までも何処までもやってみるところにそこに仏の御苦労がある。人間的に考えれば無駄骨を折っているようであるが、仏の御苦労というものを感ずる時になればそれは無駄骨ではない。それは皆意味を有つ。けれどもしかし仏の御心を内観してみればそれが無駄ではない。それを通してそこに仏の御苦労が知られる。だからして何も無駄は一つもない。世の中に無駄というものは一つもない。果遂の誓では無駄がない。果遂の誓というものを知らないものは、雑行は無駄なものであったり、あんなものは捨ててしまえ。こっちから捨てると思うたから無駄だけれども向うから捨てしめて下されたからということを念ずる時になれば、やはりそこにも何か深い意味がある。吾々のすること為すことが皆無駄ではない。そこに皆念仏の光がある。無駄なようなことの中にお念仏の光がある。単なる雑行雑修そんなものはない。皆立体的である。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

現実の我々の日暮というものは、皆どうせ死ぬのだから早う首を吊って死んだ方が近道だということになる。楽しみをしたって結句しまいになれば夢みたようなものだからまあ早う往生した方がよい。そういう工合にも考えられる。若し果遂の誓というものがないことになれば、朝に道を聞けば夕に死すとも可なり。お釈迦さまは三十五歳で成道なされた時にもはや長い間の迷を晴らしてしまった。だからしてもはや自分は何も知ることがなくなった。今まで迷の仕末をする為に長い間生きて来た。仕末してしまえばもう自分の仕事は済んだから早速是から食べるものも食べないで入滅しよう。こういう工合に念ぜられた。ところが直ぐに天が現われて、待って下さい、貴方は今までは本当の仕事はなさらなかった、これから仏としての大きなお仕事があるじゃありませんか。こう申し上げた。成程そうであるというので釈尊は入滅することをお止めになった。それからやはり食べものをおとりになってそうして八十歳までの間仏法を弘めて下された。だからもはや南無阿弥陀仏というものを教えて戴けば仕事はのうなった、もはや我こと終れり。ところがそうではない。これから本当の仕事がある。これが果遂の誓であります。