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欲生の真義 (4/19)

そうでありましょう、ただ人をみてあの人はまあ立派な信者であるが吾々は及びもつかないと云う。そういう立派な人の姿は円でありましょう。仏さまの御姿も円である。立派な妙好人の姿も円である。法然さまの姿も円い姿。円光大師という。円光大師をただ驚歎をして及ばざるを悲観するだけである。それは成程一面から云えば自力無効であるが、その自力無効ということを本当に知らして呉れるものが欲生である。だからして欲生は一応は自力を認めて来る。そうして本当にその人の経験に由って自力無効ということを知らしめる。そこに欲生の真義がある。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

人間はいろいろやってみて失敗してこれもいかんああやってみてもいかん。いかんものなら止めて置け。そういうものでない。まあやらしてみる。何遍でも何遍でもやってみよ、出来るか出来ないかやってみよ、それが欲生であります。それだからしてだんだん失敗して、その失敗が単に失敗ではなくやってみて初めて無効を知らして貰う。だからして経験してはじめて駄目ということを教えて貰う。果遂の誓というものは何処までもやってみて、またやらしてみて、やろうと思えば大いにやりたまえ。そうして自力無効ということを知らしめて貰う。こういうところに果遂の誓ということがある。その果遂の誓というものの根源原理というものが欲生我国である。だからして欲生我国は果遂の誓と選択本願との二つを一つならしめるものである。吾等はその一面のみを見て自力だと思う。自力を通じて自力無効を知らしめる。それが欲生である。ただ信楽では本当の信楽だという証拠にはならん。本当にやってみて本当に自力無効が知らしめられたところに初めて純粋の信楽というものを成就する。