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如来の廻向心 (4/17)

で、この間欲生のお話をいたしましたが、欲生はつまり如来の廻向心である、こういうのであります。廻向ということは本当に自力無効ということを知らしめるところを廻向心と申すのであります。これはこの間からもそのことについていろいろ質問もあったのでありますが、廻向ということは我が国に生まれん欲えということ。これは仏からみれば皆子供である。仏の子供が親を忘れ、自分の故郷を忘れてそうして旅にさ迷うている。つまり法の子供が法の親の故郷を忘れてそうして所謂、我の世界へさ迷うて行ったのであります。それを呼び戻す言葉が、我が国にうまれんと欲えということ。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

放蕩息子が長い間親を忘れてそうしてだんだん零落ぶれてしまって、全く親のことを思い出さなかったのが、愈々窮した時に、南無阿弥陀仏を思い出した。そうしてそこに故郷を思い出した。つまり南無阿弥陀仏というものの中に、我が国に生まれんと欲えという親の喚び声を見出した。その親の喚び声が即ち久遠の喚び声でありましょう。久遠の喚び声を今初めて聞いた。だからして願生ということは俺が願生するのでない。親の喚び声を聴くということが願生でありますが、親の喚び声と云えば南無阿弥陀仏が親の喚び声の体である。即ち親そのものである。南無阿弥陀仏の名号は親そのものであり、そこに親の喚び声を聞いた、こういうのであります。親のお喚び声を聞くということは願ずることである。南無阿弥陀仏は正しく現在の如来である。現在の親であるが、その現在の親の体の中からして久遠の親の念願力、親の本願に立帰らしめられ、親の本願の声を聞くのがそれが欲生我国であるということである。