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回向と摂取 (4/16)

しかしながら私共の歴史観の体は何であるかと申せば念仏の法である。即ち我々一切の者が帰依すべきところの法が歴史の体である。私共の救いの真実の歴史の体というものは南無阿弥陀仏というものである。こういうように私は信ずるものであります。法とは常住でありまた平和である。常に常住平和であって、そうして常に現在するものが法である。そこにはなんの矛盾もないのであります。そうして法はそれに於て衆生が生まれ、それに於て衆生が死んで行く。衆生の上には生と死というものがある。しかしながら法に於ては生もなく死もなくして、常に現在しているのであります。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

法は常に現在しているから我々衆生は南無のところに生まれて、そうして阿弥陀仏のところに死んで行くのであります。衆生としては生と滅とがある。けれども南無阿弥陀仏の法そのものからみれば常に常住であって、そうして衆生を限りなく摂め取る。つまり云ってみれば仏の御助けということにつきましては、二つの方面があるようであります。一つは廻向であり、一つは摂取である。つまり廻向のところに衆生が生まれ、摂取のところに衆生が死んで行く。廻向はこれ因であり、摂取はこれ果である。南無はこれ廻向であり、阿弥陀仏これ摂取である。かくの如く生も死もともに如来を離れないのである。廻向というのはつまり衆生が如来の法の中からして孤孤の声を挙げて生まれて来たのでありましょう。摂取というのは既に外に生まれたるところのものが、また再び法の懐の中に帰り行くことであろうと思います。そういう工合に考えれば二つ別もののようであるけれども、それは一念同時にあると思います。ただ一念同時の前後であります。前念・後念の同時という。けれども同時ということはやはり時間の連続であります。