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仏教は論でない (4/15)

だから要するに人間の思想は我の発展である。人間の学問は総べて我の発展であった。哲学というものは我の発展の歴史が哲学史である。そこに法というものがない。ただ我だけある。多くの人は仏教は唯心論だと思っているようであるけれども私はそう思わない。多くの宗教が仮い唯心論であっても、仏教は決して唯心論ではなく無論唯物論でもない。仏教は論でない。故に論がないから論理もなく理論もない。論理・理論を超越して仏法がある。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

論理は我の武器である。論理とか理論というものは我の武器であり自我の発展の武器である。即ち闘争の武器であり戦い取るところの武器である。だから自我のあるところに闘争がある。そこには帰命ということはない。法の世界にのみ帰命がある。南無帰命は我の世界には無いと思います。私共は現実だの理想だのと云っていますけれども、その現実とか理想とかいうものは、つまり現実の人生の闘いに対して理想の平和というものを求め、現実の人生の彼岸に、絶対平和の理想界というものを憧れるものでありましょう。しかしながらその理想というものはただ理想としてみれば、如何にも平和であるけれども、またそれの現実の相は闘いである。理想というものの現実の相は現在の人生をみなければならぬ、つまり理想主義だの現実主義だのいうのでありますが、結句同じ仲間であります。ちょうど時計の振子が右の方へ行ったり左の方へ行ったりすることと同じことでありまして、右の方へ行けば理想主義、左の方へ行けば現実主義、けれどもそれを綜合するところの主体は我であります。我というものが理想と現実とを綜合している。我というものは理想と現実との矛盾を綜合するところの主体である。こういう工合に考えられている。だからして遂にその矛盾を永遠に克服して行くのが我である、こういう工合に考えられているのであります。そうして限りなき流転の歴史を歩んで行くのであります。だからして人間の学問にあってはただ流転のみがある。つまり唯物論と唯心論とが、観念論と唯物論とが闘った。つまり観念論の理想主義とそれからして唯物論の現実主義と、この二つが闘い争うて、そうして結句自我というものがそこに発展して行く。これが現代人の歴史観であるように思うのであります。