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自我論 (4/14)

そこでつまり神に依って一応は救いを得たように感ずる。けれどもしかしながら深く更に反省してみれば、自分が救われないから神に証明を求めている。未だ救われない祈り、そのものを以て神の体としているのだからして、結局どうなるかと云えば一応は神を証明すれば、それで救いの鍵を得たように感ずる。けれども更に深く反省してみるというと、結局救うことも救われないこともその鍵は神に握られてしまった。初は鍵を自分が持って居った。その鍵を今神さまに渡した。大事な救うとか救われないとかいう鍵を初は自分で持って居ったのだ。けれども今その神を見出した時に、その大切の鍵を神さまに渡してしまった。そうすれば神さまに頭が上らない。殺活の権利は神にある。だものだからして未だ本当に助って居ないからして、神さまがどうしようとこうしようと神に権利がある。そうすると人間は神の奴隷になる。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

万物の霊長だということを証明する為に神に証明を求めたのであるが、結局その神を証明するということは、自分を証明する為に神を証明する。神の証明が神を証明するものでなくして、神を証明することは自分が万物の霊長であるということを証明する。その手段に神を証明した。ところがその神を証明し得て、一旦はそれで安心して今まで持っている鍵をみな神に渡してしまった。しかしながら自分の救いが一向証明されて居らない。ただ活かそうが殺そうが神さまの随意だということだけ分った。故に前は鍵を自分が持って居ったのだから不安は不安だ、けれども未だよかった。今度は鍵まで向うへ取られてしまって、前よりもっと大きな不安になった。その腹立ち紛れに今度は唯物論が出て来た。神に対して反抗復讐するのが唯物論、即ち虚無論。あれはつまり神に対する反抗である。この神を認めるのが唯心論。神を否定するのが唯物論。唯心論も唯物論も畢竟するに自我論である。即ち神を中心にして立てた我の論であります。多くの人は唯心論は善いもので唯物論ばかり悪いものだと思っている。けれども私から考えれば唯物論も唯心論も同じ仲間、共に自我論である。だからして唯心論が一転して唯物論になったのであるからして、唯物論が面を被れば唯心論になる。世の中の人はそれを以て転向だと思っている。唯物論者が唯心論の面を被るというと転向だという。しかしながら結句同じ自我論であって我というものが絶えない。