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喜びの体が南無阿弥陀仏 (4/13)

南無阿弥陀仏は無始よりあるのだけれども、しかしながら正しく私自身にあっては、南無阿弥陀仏は自分の一念帰命から始まる。しかし大行そのものからみれば始もないのであります。けれども本願成就ということを念ずれば、自分が救われた時そこに南無阿弥陀仏がある。自分にあっては南無阿弥陀仏は何時も信の一念から始って、そうして自分としては何時も信の一念にある。で、この南無阿弥陀仏は決して救われないものが救いを求めるところの祈ではない。既に救われた者の救われたところの喜びが南無阿弥陀仏。即ち喜びの体が南無阿弥陀仏であります。
(真宗の眼目第六講『本願を産むもの』より)

多くの宗教の祈は、救われない者が神へ救いを求めるのである。だからその神に依って永遠に救いがない。一時は救われたように思うけれども、しかし救いは全くない。日本人なんか理論がはっきりして居ないからして何か知らん有耶無耶に葬っている。けれども西洋人の方は総べて理論的に組織しているのであります。だからして極めて明瞭である。やはり神は、未だ救われないものが救うところの神を証明している。つまり神に救われるということは、人間が万物の霊長であるということを神に依って証明して貰えばよい。それを証明する為に神に祈をかける。万物の霊長だということが証明せられて居らないから万物の霊長だというその証明を祈る。それがつまり祈だろうと思う。そうして神を証明した。つまり自分の祈そのものの体が神である。だからしてこの人間の祈はどうしても未だすくわれないから祈るのである。未だ救われて居らないから救われることを祈って、そうしてその救いを祈るというところにそこに神の存在を証明するのであります。