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佛恩報謝 (4/12)

道光明朗超絶せり。朗かな光明ということは、朗らかな感情である。如来は光明なりと念ずる時、光明なりと念ずる自分が光明になる。佛が光明であるということは、それを念ずる自分も亦光明である、朗らかである。念佛に於て佛を念ずるを念持という。言ってみれば南無阿弥陀佛は念持の佛。黙祷をするという。何を黙祷しているか。黙祷というと頭を下げさえすれば黙祷。そういう訳でない。何を念じて居るか。私は自分に問うてみたい。どうも私は黙祷黙念というものはなかなか出来ないと思います。何を黙祷するか。光を黙祷する。光を念ずるけれども光というものは念ぜられるものではない。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

そこでこの佛法というものは、その黙祷黙念の方法を南無阿弥陀佛の名号で以て示す。その黙祷黙念の行体として、南無阿弥陀佛というものを成就下された。世界広しと雖も、黙祷黙念の行いうものは何処にもない。いろいろさまざまの行というものを教えるけれども、本当の黙祷黙念の行というものは何処にもない。ただ昔から世界にあるのは南無阿弥陀佛だけである。念佛には有ゆるものが法爾自然に妄念妄想が否定せられる。だからしてそこに肯定だけ残る。もう諸有るものは皆その儘肯定される。南無阿弥陀佛と云ったら自分の自力、妄念妄想、煩悩具足の凡夫、そういうものは皆否定せられてしまうから、ただ佛のみが残って来る。したがって諸有るものが摂取されてそうしてそこに光り輝いているところの姿が現われる。念佛というと多くの人は何か皆否定するもののように思う。雑行雑修は皆駄目だ、皆否定する。お念佛は自分を否定することであり他人を否定するということはない。自分を否定してしまえば今度は誰でも肯定することが出来る。皆そのまま総べてを肯定するところが佛恩報謝、有難いということでありましょう。