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本当の歴史 (4/9)

だからして本当の歴史というものに眼を開いたところの人は、何時でも死んだ親に会うことが出来る。何時でも親は現前にある、其処に歴史がある。歴史のないただ個人主義の人間からみれば親が死んでしまえば親は過去へ行ってしまう。過去へ行ってしまうからしてこれはただ書物に書いてあるだけ。親は何処にいるか。過去帳の中にあり。過去帳は火事で燃えてしまいました。又書き直せばよいもの。要するに親は何処にあります。過去帳の中にあります。墓の中にいたり過去帳の中にいたり。そんなことじゃ情けない。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

親は何処にいます。今ここにおいでになります。今年は親の五十年忌を勤めた。五十年も今の如し。そこに初めて歴史の世界というものに眼を開く。歴史の世界というものに目を開いた時には、五十年も百年も現在にある。過去も現在の如し。如来というのは過去も如来なり、現在も如来なり。過去も現在の如し、現在も過去の如し。過去と現在とは連続している、持続して変らない、それを如来という。だからして過去と現在との間に少しでも切れ目があったら、もはや歴史は成立たない。切れて居っても続いている。切れて居ると我々は思っている、けれどもそれは、切れていると思うのが間違であって、本当は続いている。直接に続いている。だからして電話の線というものがあれば一里離れて居っても千里離れて居っても同じこと。千里目前にあり。続いて居れば聞える。