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正定業の念佛 (4/7)

南無の始は常に信の一念に立つ。一生涯を貫ぬいて常に現に信の一念に立っている。だからして、信の一念というものに立って念佛が何時でも称えられる。南無阿弥陀佛は何時も始があるから何時も何時も新しい念佛が出て来る。新しく新しく生まれて来る。たった一遍でも本当の南無阿弥陀佛が称えたい。皆嘘の南無阿弥陀佛、本当の南無阿弥陀佛はない、それは南無阿弥陀佛というものの輪をみてそうして驚いて本当の南無阿弥陀佛が称えられない。自分が称えればみな直線の念佛になるのである。本当のお念佛は円となる。だから一生涯の間にたった一遍でも円まっこい念佛が称えてみたい。こういうのでありましょう。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

円い念佛を称えてみたいけれども、称えるとみな直線になる。称えると皆嘘の念佛になる。南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、この円まっこい念佛が称えたい、それは自覚して居ないけれどもそういうのでありましょう。円まっこい念佛が称えたい。けれども称えても称えても直線の念佛しか出て来ない。まあそういうものらしいのでありますが、成程円まっこい念佛をみてもどうしてもこういう念佛が出て来る方法がない。これは我が力で称えようとすれば円い念佛は出て来ない。これは自分の自力を捨てれば、何時でもこの円の念佛が出て来る。ここに信の一念が何時でもちゃんとある。だから何時でも一念帰命するところに円っこい念佛が始まる。洵に始あり終ありと云うことが出来る。これを他力念佛と云い佛恩報謝の念佛と云い、正定聚の念佛と云う。円まっこい念佛、これは本当に自力無効と知らして貰うたところの其処に、一念帰命ということが始まる、そこに円まっこい正定業の念佛がある。