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円満の大行 (4/6)

私は南無阿弥陀佛を何遍称えてみても、本当の南無阿弥陀佛が称えられない。一生涯にたった一遍でも本当の南無阿弥陀佛が称えてみたい。本当の南無阿弥陀佛と嘘の南無阿弥陀佛と二つある訳はない。本当の南無阿弥陀佛はただ一遍しかない。初から嘘と本当と二つ分けているからしていくら唱えても嘘しかない。本当のものはない。いくら皮を剥いてもいくら洗うても本当のものはない、終いになくなってしまう。薤の皮を剥くようなもの。薤の皮は、未だ皮があるか未だ皮があるかと思って剥くと終いに何も無うなる。これは直線の南無阿弥陀佛しか知らんもの。直線も真直ぐならよいけれども、まるきり稲妻みたような人にぶっつかる。南無阿弥陀佛あいつは憎い奴南無阿弥陀佛。念佛を唱えん佛とも法とも知らん奴を一つ驚かしてやれ南無阿弥陀佛。そういうような南無阿弥陀佛は直線だけれども今後は二つ続けて行くと、あっちへ曲ったりこっちへ曲ったりするものだから角が立つ。お念佛に角が立つ。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

南無阿弥陀佛は利他円満の大行。円というものは始もなく終もない。円を描いてみればちゃんと始がある。しかし円をみればどうして描いたものか、円の始は何処でしょうか。円には始もなく端もない。円に端がないから円は描かれないものか。端のないものをどうして描くことが出来るか。この数珠には端がない、この数珠の端は何処でしょう。円いものには始も終もない。けれども数珠には限りない端がある。だからして円は何時でも描くことが出来る。分廻しを廻せば何時でも円が出来る。円だけをみていくら思案したところでどうしてこういう円が出来たものか誰も分らぬ。始も終もないようなものをどうして作ったものだろうか。どうして作ったかというけれども、しかしながら始は何時でも何処にでもある。南無阿弥陀佛は円満の大行であるから始も終もない。けれども何時でもそこに一念帰命、信の一念というところに始がある。信の一念というものがあれば何時でも念佛が出て来る。お念佛の始は信の一念という。それであるからして、もう信の一念から念佛は始まる。出来上った南無阿弥陀佛をみても始もなく終もない。だからしてこの一念帰命に眼を開けば何時でも南無の始は現在である。