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自分が救われれば (4/4)

親が子供のことを心配している。その親の自分が南無阿弥陀佛で以て一念帰命で助かって居るというと、子供が仮い南とも無とも知らずに死んでも、心配しなくともよい、やはり子供も助かって居る。俺は助かっているけれども自分の子は助かって居らない、そういうことは高慢な考で、自分の如きものすら助かっているのだ、だからして子供のことは心配も何も要らない。自分の如きものを助けて下さる佛さまであるからして、子供は南とも無とも聞えなかったけれども、必ず助けて下さる。自分が助かったということに依って世界中の人間が皆助かって居るいうことが分る。世界広しと雖も我一人助かっているが外の者は皆地獄に堕ちているだろう。そういうことはない。自分如き者すらこの通りはっきりとお助け間違ないという安心が出来るのだからして、もはや外の者は皆助かっている。何も他の人のことを心配することは要らぬ、自分について心配しないならば外の人についても心配は無用である。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

心配無用ならば何もしないでよいか、そうではない。心配無用だけれども自分の子供のことについてやはり又いろいろと骨折って心配してやるということは、それは本当に有り難いことだ。親の自分が救われれば子供は救われる。親が救われて居れば親子兄弟皆救われている。佛法の道理というものを推して行けば皆そういうようになっている。また只今救われて居らんので、軈ては救われるであろうという見込みを置くこともあろうと思います。たとえば『歎異抄』の第四章とか第五章とか見れば、それ等の問題について「親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というようなことがあって、やはり仮い親が迷うて居っても、自分が救われれば軈てまた親を救うことも出来るであろう。こういうように仰せられたのであります。説明すればああいうことになるのだけれども、もう一つ直接に云えば自分が救われれば自分と一緒に親も救われる。子供も救われる。そういうことをああいう工合に分り易いようにお示しになったのであろうと私は思います。