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自他一如、内外一如 (4/3)

畢竟南無阿弥陀佛の謂れが分って居ないから心配する。南無阿弥陀佛の謂れが分ったら人に聴かなくてもよい訳。人に聴いてそして自分の力で助かるのでない、佛の力で助けて戴くのである。だからして別に何も心配はない。親を亡い子を亡くした人々もそうでありましょう。自分が助かって居れば子供も助かって居るだろうということが直ぐ分る。俺はお念佛したから助かっているが子供はお念佛を知らんから迷って居ろう、そんなことはない。自分がお念佛で助かったら、自分の子供もお念佛で助かっているということは定っている。だから心配しないでもよい。手前の方がお念佛で助かって居らんから子供も助かって居らんだろうと云って、要らぬ心配をしているということになる。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

それは人間の凡情としては、親の慈悲は有り難いことだ、けれどもしかしそういうように自分が分って居らんから子供のことを心配する。自分が南無阿弥陀佛で助かったものならば、やはり子供も南無阿弥陀佛を称えなくともやはり南無阿弥陀佛で助かっているということが分るのであります。南無阿弥陀佛を称えるものだけ助かる。称えないものは助からぬ。そういうことはない。南無阿弥陀佛を称えるものが助かるということが本当に分ったら、称えなくても助かるということが分る。俺が南無阿弥陀佛を称えて助かった、息子が南無阿弥陀佛を称えないから助からないだろう。それは南無阿弥陀佛の謂れが分って居ない。自分が南無阿弥陀佛で助かって居れば、もう子供が南無阿弥陀佛を称えようが称えまいがやはり南無阿弥陀佛で助かっている。そういうように自分が助かればやはり自分の子も助かるのである。それが自他一如、内外一如。