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道は近きにあり (4/2)

親は自分の子供を見た時に、ああこれは自分の昔の姿で懐しい。俺の昔の姿はどんなものであろうかと幾ら考えても分らぬ。皺だらけのお婆さんが、自分が子供の時どんなであったろうかといくら沈思冥想して考えても分らぬ。何も沈思冥想することは要らない、自分の抱いているその孫が自分の子供の時の形である。冥想は要らない。その目前の事実を見るべきである。自分の懐しい子供の時の昔の姿は現在目前にある。何十年の昔の姿は現在眼の前にある。お婆さんが孫を可愛がるというのはそこから来た。自分の昔の姿が眼の前にあるからそれで可愛がる。母親が自分の子供を可愛がるのはそれは二十年前の自分の姿。お婆さんが孫を可愛がるのは六十年前の自分の姿。そういう道理を教えて下さるのはお念佛である。
(真宗の眼目より、一昨日の続き)

だからして道は邇きにあり。そういう道理を聴かして貰うところのそこに現生不退がある。だからして我我はただ自分が眼をつぶって、行く先は真暗だ。何も行く先は真暗でない。お婆さんが如何に俺の昔はどんな姿であろうと眼をつぶって考えても分らぬと同じように、自分の行先をいくら眼をつぶって考えても分らぬ。分らぬから恐しい。尤も死ぬことは恐しいものだと云って脅すものがあるから恐れる。尤も脅すのは脅かす必要があって脅かすのであろう。しかし死んでゆく人を見よ、その人々は何も心配気もなく死んで行く。病気でも何でも別に何も心配もなく眠るように幾らも幾らも死んで行く。その姿をみると何も恐しいことはない。尤も病気に依っては苦しむ者もあるであろう、しかし大したことはないと思います。だからしてそういうふうに眼を開けて、ものを見て行くのを現生不退という。みても分らぬものだけを考えて行くのを臨終現前という。臨終現前の道は今申します眼をつむって五十年前の子供の時の姿を考えるようなもの。そういうような道が第十九の願の臨終現前である。南無阿弥陀佛を念ずれば何も心配はない。どうせ自分の考は皆地獄の種であり、自分の妄想は何にもならぬ、自力無効である。自分がどうしようこうしようと云ってもどうにもならない。ただ南無阿弥陀佛の相をみよ、そこに現生不退がある。南無阿弥陀佛の相をみて行くことが出来ればそれでよいのであります。