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佛の子であるという自覚 (3/31)

大体南無阿弥陀佛は佛の正覚の名であるが、亦至心・信楽・欲生我国は因位法蔵菩薩の本願の体としての南無阿弥陀佛。だからその昔の或講者は、至心・信楽は名無の二字、欲生我国は阿弥陀佛の四字であると講釈して居ります。是は大いに道理あることと思います。だからして至心・信楽・欲生というのは因である。因の位にあっては三信、果の位にあっては念佛、だからして南無阿弥陀佛に於て三信を見出す。南無阿弥陀佛に就いて三信を見出すが、その三信は何処に見出すか。欲生我国に於て見出す。尤も三信の道理というものは深い道理があって、之をただこうであると一つに片付けることは出来ないでありましょう。三信については、詳細に今日お話出来ませんから略してお話して置くのであります。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

兎に角内にあっては三信、特に欲生我国、外にあっては南無阿弥陀佛。それだからして願というのは即ち欲生我国。至心・信楽・欲生我国の三信は我等衆生にあってはその願は信楽を体とする、しかしながら之を佛の御心に求むれば欲生というところにある。まあこういう工合に言われると思うのであります。我等が本当に信心を戴くところに佛の喚び声を感ずる、即ち欲生我国という佛の静かに喚び給うところの喚び声を南無阿弥陀佛に於て感ずる。南無阿弥陀佛に於て佛の喚び声を感ずるところに、我々が佛に目覚めた者として、佛の一人子としてそこに現生不退を感ずる。現生不退ということは佛の子であるという自覚であります。佛の子ということは佛の因位の位の菩薩である、即ち法蔵菩薩である。法蔵菩薩を我なりと感ずる。だからして一人一人が皆法蔵菩薩を感ずる。南無阿弥陀佛と云えばたった一つのようでありまするが、それがまたみな我々は各々の内に南無阿弥陀佛を観ずる。つまり佛の子と云えば佛の因の位である。果の位にあっては親、因の位にあっては子供である。