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名号の徳 (3/29)

光明の本願というも寿命の本願というも名号の外に何もない。阿弥陀如来は光であり又壽(いのち)であるが、その佛はただ南無阿弥陀佛と称うるところに現在なさるのである。その光の体は何であるか、則ち六字の名号が光の体をなす。如来はその名号に於て光明無量・寿命無量である。要するに光明・寿命の二無量の徳というも名号の徳である。
(真宗の眼目より、昨日の続き)

南無のところに寿命無量、阿弥陀佛のところに光明無量が在す。大体に就いて云えばそういう工合に戴いても差支なかろう。或は阿弥陀佛ということが光明無量・寿命無量、こうも謂われる。けれども私はそれよりも寧ろ南無のところに寿命無量あり。つまり寿命無量ということは因の徳であります。光明無量は果の徳である。光明無量は如来が衆生を助けたまうところの始である。その始のところに光明無量がある。又寿命無量はその佛が衆生を御助けなさるところの終局のところにある。けれども光明無量も終まで一貫し、又寿命無量も始からあるのだ。けれども兎に角光を以て先ず衆生を照見しそうしてそれを摂め取りて、憶念執持して遂に如来と一如であるところの無上涅槃の位までも一貫している。そういう意義をば寿命無量と申すのであります。つまり体は六字のみ名の外に何もない、こう言われるのであります。